この席を催した信形が前に出て、近習を遠ざけさせた。
晴信は五人の老臣に向かって言うに「信虎公、某を廃し信繁をもって家督を譲らんとすること数年に及び誰知らぬ者はいない。
この晴信、一国を治める才知が無く、信繁に我の十倍の孝心才智があったとしても、彼は二男、我は長子である、世間でも、信虎こそ長子を捨て庶子を立てるのは世間の理に適わぬのではないかなど様々に申しておる
当家の虚を伺う敵、信州に村上、木曽、諏訪、小笠原あるというのにわが武田の家では家嫡を廃し人心一致せず、この時に乗じて甲州へ乱入しようと諸方一度に蜂起して乱入すれば家の危機である
我に国の危急を救う器量が無く、この身を他国に漂泊してどこかの山野で餓死するとも、この身の不肖であれば、なんら惜しむことはない
武田の何某こそ家嫡を憎み、それゆえ国家を滅ぼすならば萬世の後まで誹謗を被るであろう、嘆かわしいことである汝らは、これをどう思うか」と問えば、五人は互いに顔を見合わせて一言も話さない
甘利備前守が進み出て「いにしえより長子を捨て二子を立て、愛に溺れて国を失った例は和漢共に少なからず、戦国の世には一歳でも長じて居れば采配柄を握り、他国の為に国を奪われるを防ぐ人に家を継がせたまわることが第一の急務と思いまする、君はまさに御惣領であり上下が帰伏し、才智武勇共に兼備されています
信繁君よりも優れているのは明白であります、ひとえに御屋形が長幼の順をあえて変えることは、他の者は知らず、某は御屋形の考えに同意するつもりは毛頭ありませぬ、この上は何かの方策を致すべきでありましょう」
穴山伊豆守は最前で頭を傾けていたが同じく進み出て「老臣たちを集め胸中を問いただされたからには、君の心中を明かして何かの術をお話しくださらなければ、身の難を招くでありましょう
御屋形の所業は天道人理、二つに背く未曽有の悪行、このままでは当家の滅亡は目に見えております、また信繁殿が家督を継げば一年とこの国を保つことはできますまい、この上は信虎公を廃し、晴信君を当主と成したまわるほか道はありますまい」と申された。
小山田、板垣、飫富もまた「穴山殿の申されること至極当たっており同意いたします」と一同意見を揃えた。
そして「こうなれば、速やかに行動なさらなければ、武田家危急存亡の時となりましょう」と皆声を揃えた。
晴信は、これを聞いて大いに驚き「これは思いがけぬ評定を聞いたものよ、父を廃するとはなんぞ、父母の恩は等しいと言うが、その中でも父の恩は大恩である
『君は至って尊しと言えども親しからず、母は至って親しと言えども尊からず、父よく尊親の義を兼ねたり』と申す
かかる大恩ある父を廃去し、不孝の働きをなしたなら神罰を被り、悪名は世間に広がるであろう、この上は進退を御屋形の心のままに任せるのがよい」と涙を流すのであった。