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藤原道長と、わが祖先の奇縁

2024年03月30日 18時58分53秒 | 日本史
 約30年にわたって我が家のルーツを調べてきて、ようやく一昨年8月に完成した。 筆書きで137ページ+資料10ページほどの閉じ本で5冊だけ手作りした。
これで骨組みは一応出来上がったので、その後は肉付け作業に入った。

それはネットを中心にして、郷土史のアーカイブ資料、地方の民話や伝説、寺社の縁起とか建立までの言い伝えなどを調べているのです。
そうして得た資料を、これまでの骨組みと照合して、訂正したり、付け加えたりしていく、それをやっているうち点と点が線でつながっていくこともあるし
面にまで広がることも稀にある
これが実に楽しく面白い、そんな中で見つけた藤原道長とわが祖先の関連話。

昔の資料や伝説は多くは推測で書かれたものや、盛った話が多くて年代や人物の前後がつじつまが合わなくなることが多々ある。
郷土資料でさえ、1000年前ともなると結構あやふやなのだ、出典がなにかもわからない、そんな中で寺社の資料はわりと正しいかもしれない
ただし伝説、言い伝えは信用するかどうかは各々の判断と言うことになる。

わが祖先の姓Aは父の代で終わり、今は別の姓Bを名乗っている
昭和19年末まで父は、祖先A家の七つの分家の一つの嫡系だったが父の母が再婚した相手B氏に(子が無かったので)B家を継いでほしいと言われて継いでBの姓になった、もちろん私もBの姓である。
父は一人っ子だったからBになると言うことはA家を廃嫡することでもあった。

そのA家であるが、郷土資料では一番古い人物が登場するのが延喜3年(903年)となっていて、その年に一族の氏神を祀った氏子7軒の神社を創建した、その神社は今も在る。 私も5年くらい前に行って見て来た。
903年は大宰府天満宮、菅原道真公が亡くなった年でもある、更に言えば平将門が生まれた年とも言われる
また三大怨霊の内の二人が将門と道真というのも偶然で不思議である。

藤原道長の六男は歌人として名高い正二位権大納言藤原長家、そして長家の孫が藤原資家、彼は妾腹だったのか?(まひろの息子かも・・それはない!) 官位は従三位だが無役だった

その頃(1125年頃)下野国八溝の山の中に、「悪鬼」「蟹の化身」などと呼ばれる人でも獣でもさらって喰らう化け物がいて、周辺の人々を恐れさせていた。「岩嶽丸」という、
都にも、この話は伝わりほおってはおけなくなり、討伐の兵を送ることになった、兵と言っても僅かな人数で、足りない分は現地徴兵と言うことになった。
そして、その大将に選ばれたのが藤原資家だった。
現地で岩嶽丸に詳しい者を雇い、三十人ほどの兵を引き連れて山中に入っていった、その中にわが祖先「Aの治部太郎」と云う者も加わっていた。
岩嶽丸の棲み処を探すのに地元で勢子数百人を雇ったが見つからず、お告げがあってそれで見つけることが出来た

そして洞穴に潜む化け物をついに発見、正体は1000年も生きているカニの化け物、背丈2m足10本で前の足は、ハサミ状、しかし資家と勇士によって退治して首を切った、その首は飛んで行って
「どうこうした」という様々な伝説になって残っている。(平将門の最後にも似ている)
その為、祟りや霊魂を鎮めるためにいくつかの神社が作られた

藤原資家は、この功により名前を須藤権守貞信と改めて、下野国を任されることになった、彼が下野黒羽城を構えた那須氏の祖先である。
源平合戦の那須与一も一族である。

またわが祖先の「Aの治部太郎」も手柄を立てて褒美として、須藤貞信の領地の内、一地方(郡)の地域で最大の集落の郷士として長百姓(のちの地主、庄屋、村地頭)の地位を得た
その後、A家の本家は昭和の戦争が終わるころまでは確実に続いていた
分家の我が家は父が昭和19年に廃家にしたが、それ以前明治の40年代に家運が傾き福島県、栃木県の各地に家族は離散した。
だから今も、それらA家の子孫が住んでいることは確かである。

大した因縁ではないが、道長のひ孫とわが祖先が家来となって一緒に悪鬼を相手に戦ったという伝承は面白い。
九尾の狐を祀った「玉藻稲荷」にも祖先の一人、A又右衛門という人が寛政12年(1800年)に鳥居一基寄進したと資料にある。
我が家の一番古い公の戸籍には文政12年(1829年)生まれのA利右衛門という名がある、間もなく生誕200年か。

岩嶽丸討伐と、九尾の狐狩りでは約150年の差があるから別であろう、狐の方は三浦介、上総介、千葉介が1155年に行ったとあるので違う件なのは確かそうだ。







「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 56

2024年03月30日 08時12分53秒 | 甲越軍記
  勘助は小田原を出て東に向かい、相州鎌倉扇谷に行き、上杉修理大夫憲政の方に寄り数か月留まり、そこから上州に向かって倉賀野越中守に留まること三月、それからも各地に出でて二か月、半年ととどまり、天文十二年冬十二月駿河国に入る、太守今川義元の城下なり。 

今川の執事庵原安房守(いおりはらあわのかみ)という者あり、武勇知略人に超え、人を看ることに明るいとのことを聞き、勘助は今川に仕官する気は元々ないけれども、あえて庵原なる人物を見定めようと宅を訪れた。
庵原も勘助の名声は日頃より聞き及んでおり、歓待してくれた。

安房守も初対面で見る勘助の醜さに驚いたが、このような体でありながら名声高きことは尋常ならざる人物と、あえて嫌わず、数日我が家にとどめ置いて兵法論議を重ねるに及び、勘助の才知は安房守の遥かに及ばざることを知り、勘助がここに現れたのは当家の福である、これはぜひとも御屋形に推挙するべしと思った。

安房守は義元に「数日の間、わが家に留まり日夜討論をいたしましたが、兵法武芸に並々ならぬ才があり某の遠く及ぶところではありませぬ、その才は当世諸国に名のある兵法者に比べて見ても抜群のもので、とても比較になりません
当家に現れたるは、これ福なりぜひとも高禄にて召し抱えれば当家を富ますこと間違いございません」と云うと、義元も満足の様子で「是非、儂の前に連れてくるように」と言った。

天文十三年正月、勘助は義元の元に立ち出でる。
義元の左右には朝比奈右兵衛大夫、岡部、三浦の如き一班の老臣、そのほか謀士ら列席し座位はなはだ厳重なり。
衆士の眼が注目する中を勘助がまかり出ると、そのその容貌醜くき小男、左足は短く、歩く姿は片足で飛び跳ねるようであり、一座の若侍は笑いをこらえるに必死であったが、末席の少年五六名、たまりかねて「クック」と笑いを漏らすと、そこに並んでいる者たちは必死でこらえる、それがかえって「モウモウ」と籠った音となり牛の声のように聞こえ、あるいは雉の鳴き声にも聞こえ、義元も近臣の忍び笑いに我慢できず笑い声を漏らした。

安房守はこれを聞いて不快に思い苦々しい表情となったが、御前に「これなるは諸国修業の名士、山本勘助お目見仕る」と言えば、義元は勘助を近くに招き
「高名の壮士と聞く、昨年より安房守の家に客居すると聞く、武術、軍略人に優れると伝え聞いた、願わくば今すぐここで武術の妙技を披露すべし、当家の者どもは武術に不器用な者ばかりで才ある者は稀である、されど普通の才の者は数多あるから、まずは槍と剣の二芸を披露いたせ」と意地悪く申す。

勘助はすでに義元の腹の内を見抜き、心に一物をもち、且つ仕官の意志などもとより無いので、あえて謙譲の言葉を用いず遠慮なく答える
「僕(やつがれ)不具の廃人で千に一つの取柄もなく、それゆえ仕官は望まず、また諸侯大人の面前で腰を折り禄を賜ろうなどと言う気もさらさら無し
某が日頃より学ぶのは、今の天下は瓜のように割れて群賊が鷹の飛び回るがごとく干戈を交え争い、これにより百姓の危難の時である
乱を鎮め、国を安全に導くのは兵器の術ではなく、軍法のみ、軍略は智策をめぐらすときは戦わずして勝ちを得る、戦う時は小を持って大を破り、野戦攻城に隊伍を整える、これが元帥の務めであり任と申すものなり
いかに槍刀の名手、豪傑と言えども日柄一日戦場を駆け巡り、首の五つ三つを取るのがせいぜいであろう、馬を駆け巡らせて功名あげるは十貫、二十貫の平士の働き、それゆえ某は剣術、槍術すべて不調法と申すなり」
勘助の遠慮ない物言いに、義元は勘助が醜い上に不敬の言葉を言うので憤りを含めて、もはや何も話さなくなった。
勘助は安房守に伴われて、この場を退出した。