晴信の陣配り、備えは六段構え、先陣は飫富兵部少輔、二陣は甘利備前守、三陣は小山田備中守、四陣は板垣駿河守、その次は晴信旗本隊、後陣は今井伊勢守、日向大和守、旗本の左右は教来石民部少輔、原美濃守、小幡織部正、
横田備中守、安間、鎌田の輩、六隊の勢、真っ黒に構え、18日の丑の刻に甲府館を発った。
急ぎ駆け付け、立て梨河原に押し出すと、鹽川、鎌梨という二つの川を挟んで、敵勢と対峙した。
遥かに敵陣を見渡せば、小笠原、諏訪の軍勢九千六百余騎に加え、信州、上州の地侍どもが此度の合戦に加わり、甲府の豊かなる寺領、民家の金銀を奪おうと信州勢に加わる、その勢二千ほどで併せて一万二三千、船山の上に陣を構えて軍旗なびかせ整然と備えている。
両軍は川を隔てて睨み合ったまま一夜を過ごし、夜明けと共に川を渡り正々堂々と会戦に及ばんと構えているところに、小笠原、諏訪方より使い番の母衣衆が二名、武田陣へ使いにやって来た。
使者の口上は「我ら小笠原、諏訪の二家はもとより武田の一族であったが、信虎の非道なやりかたで、わが領土を奪い蹂躙したことは許しがたく、我ら日頃より恨みに思っていたが、天罰が下って嫡子晴信によって駿府に廃去されたのはもっともなことである
されど親に不孝をはたらいた晴信もまた非道の輩であることは疑いなく、我々は今後とも武田との仲を取り戻す気はさらさら無い
此度の合戦において、この三家の存亡を定めようではないか
付いては、明朝卯の刻、台ケ原において決戦をしようではないか、いかがであるか」と問うてきた
晴信は、これを承諾したので使者は川を渡り陣営に戻っていった。
晴信は、使者が去ったあと重臣を集めて言うに「このような申し出を承ったが、小笠原、諏訪の腹の内は我らをだまし討ちしようとしているのは手に取る様にわかっておる
彼らは船山の高台より駆け下りる地の利がある、ゆえにこの儂が信を守る者と信じて裏をかき、我らの軍勢が時間通り川を渡り、いよいよ浅瀬に差しかかった頃合いを見て、一気に敵は押し出し、足元のおぼつかぬ味方を殲滅せんという作戦である」
晴信若年と言えども智勇に優れ、孫呉の軍法に精通していればこそ、敵の朝知恵を見抜いていたことに重臣らも驚くばかりである
「さて、我らは敵の裏の裏をかくこととする、今宵夜半にこの陣のかがり火を盛んに炊き、捨て置き、味方は声も立てず静かに速やかに鹽川を渡り、台ケ原の上の丘に陣を移す
丘からは南へ鎌梨河原に向けて道なき道に一夜の間に道をつけよ
明け方と共に前陣から後陣まで一斉に鎌梨川を渡れば、敵の知らぬ間に鹽川を越えて攻め太鼓を打ち鳴らし鎌梨に攻め寄せる味方に敵は驚き、慌て騒ぐであろう。
後陣には我が家の割菱の旗、諏訪の旗を打ち立てて、さも儂の本陣である様に謀れば、敵は本道よりわが本陣に攻めかかろうと前陣に押し寄せるは必定である
敵の先陣と、わが先陣が激しく競り合う時に予は旗本三百騎の精鋭で丘より馳下り横合いから敵先陣に突き寄せ、敵を乱して早々に丘に引き上げ
敵二陣が攻め寄せれば同じく攻めては引くを繰り返すなり、そしていよいよ諏訪、小笠原の本陣が出てくれば同じようにして一気に決着をつける、敵の敗北は定かである」
これを聞いた諸士、老臣は一同に声を上げて、晴信の策略に感心することしきりであった。