武田大膳大夫兼信濃守晴信、未だ若きと言えども先に韮崎において、小笠原、諏訪の大軍と戦い、これを粉々に粉砕した。
その後、天文八年閏六月に両家は再び、甲州に押し寄せたが、撚場、野辺山、蔦木の合戦でまたも敗れて、それ以後は信濃に籠ったまま静かになった。
是より、武田の武威は日々高まり、天文八年には晴信十九歳となった。
若気の至りと言うか、自分の才気に自信を得て、信州の者どもなど恐れるに足らずと言って、次第に奢りの心が現れて来た。
近頃では華美、風流に心を奪われ、甲州の地は住人田舎臭くて卑しいと言い
特に女性の姿かたち、物言いが鼻につく
都人は婦人の風情が端正で美しく、且つ情深いと聞くと、都の婦人の何もかもが美しく思えて「都より容儀正しい者を呼び寄せて、甲府の婦人の卑しいしぐさを改めさせるように」と命じた。
都から朧(おぼろ)と言う芸妓を呼び寄せ、その他にも都の美女三十名ほど招き、これを晴信の傍に留めた。
諺に「紫蘭の室に入る時は、染めざるに衣自ら香し」と言う
いつしか都の美女、技芸の虜となり心を奪われ、後には朧を側女として愛するようになった。
そのほかにも追々、都より芸妓、遊女を十四人呼びよせ、これをも侍らせて、全て寵遇したので、今度は晴信の寵愛を巡って女同士が妬み相争い「今夜の館はいずこの室に」などと様々な恨み言が城中に聞こえるようになった。
昔、晋の武帝は司馬炎と言い、三国時代には魏に仕えた司馬仲達の孫である
呉、魏、蜀を滅ぼしたのち河南洛陽に都を定め、奢りは日々増していき、金殿玉楼を建てて後宮の美女三千人侍らせ、日々酒食、色に溺れて、その寵愛を受けた絶世の美女は八百人、後には女たちの嫉妬に手を焼き、帝は今夜の情婦を選ぶこともままならず、それぞれの部屋の前に生け花を置かせて、蝶を放ち、その蝶が留まった生け花の主を今宵の褥とすることにした。
すると、知恵の巡る者は生け花の中に蝶が集まる、甘い蜜をたらし込むなどの策を練る者さえ現れた。
晴信もこれに倣い、愛妾を庭に集めて、それぞれに六尺(1.8m)の竿を預けて、その先に桃、梅、芙蓉、桜などの花を挿して相争わせ、勝った者を今宵の寝所に招き、これを花軍(はないくさ)と名付けて悦に入っていた。
またその頃、世に詩人と称される禅僧を日々招いて風雅の類にのめり込み、花言葉に酔い、すでに兵法、武を講ずることが無くなってしまった。
家臣たちは口々に「御屋形には天魔が取りついたのではないか」と危ぶむ
甘利備前守はとうとう耐え切れず、三十七か条の諫書を晴信にさし出したが、まったく取り上げる様子はなく、もはや誰も諫言する者がいなくなった。