神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

自然と生きる漁業者

2024年03月27日 20時35分17秒 | 雑記
 漁師が漁をするのも、私が干物を作るのも風と天気に左右される。
漁師などは「船板の下一枚地獄」というように嵐に出会えば、命さえ左右されるから、今の時間の天候もさることながら、この先何時間後の天気にも気を配る。

カレイを捌いて、塩水につけ夕方から2時間干したけど、雨模様で湿度が高い上に風もさほどなく失敗。
朝は5時半から、もう一度干した、風は結構あるが湿度高く、8時には雨の予想なので7時までが勝負。
干物失敗ので、から揚げ用にして冷凍と相成る。

北海道では昨年来イワシの大群が押し寄せる現象が起きている
記憶が確かなら年末にも海岸に上がったとか・・・そして大地震
富山定置網にもイワシが大量だった、けっこう大きめでそれなりに脂がある、5~6匹おすそわけいただいて食べてみる。

縁あって漁師の手伝いをすることになったが、長年の私は魚屋さん、料理人として漁師の魚を市場で競り落とす側だったから、今は提供者側にへんし~~~んしたわけで、人生の奇縁を思う。
魚屋には魚屋の苦労と工夫あり、漁師には漁師の苦労と工夫がある
いろいろ新しい情報や人間関係を知ることが出来て、3時起きも苦にならなくなった。
港にいると漁師同士の会話が聞こえてくる、一番多いのは「網」と「潮」
「何網を何百mに刺したが坊主だ」とか「今日は四つ刺したがカニはまったくいない」とか「網幾つ上げた」
「潮がよくない」「潮は悪くない」「潮が早い」「なになに潮だ」「うねりがある」「潮がぶつかる」「潮を見んとわからん」
この二つが漁には重要なのだろう。

近年はレーダーや魚深を装備しているから、昔みたいに星を見たり、陸を見たりとかは言わなくなった、昔の漁師はよく「天気が悪て、岡(陸)が見えん」などと話していたものだ、そんな言葉は今の漁師からは聞こえない。
「月夜がに(カニ)は身が無い」というのは魚屋の会話、魚屋は魚屋で、魚の良し悪しに関する言葉が定着している。
立場立場で、それぞれの生活の知恵があるのが面白い。

天地真理 ☆ 愛の渚



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 53

2024年03月27日 09時25分08秒 | 甲越軍記
松田は、勘介の兵法の理を否定しようとさらに続ける
「そなたは三州牛窪に生まれ、兵の五十人も率いたことなく、村の長にもなったことはなく、まして小城の一つも任されたことはあるまい
畳の上に人形を並べ、粘土をこねて小さな城型を作って『こう攻め寄せれば云々』などと僅かに二十分の一の小形をもって胸算用を兵法と称するが、これは太平の時にこそ通用するだけの事、いざ戦が始まり戦場に出れば、たちまち胸算用は崩れ去り、ただただ右往左往するばかりとなり、心胆取り乱して逃げ惑であろう
論ばかりを高くして、戦場にて役に立たなければ、それは虚論と申すもの、何の益があろうや、舌先三寸弁が立つものが勝つ道理であろう」

これをじっと聞いていた勘介は、やや笑みを含んで
「そなたを高名の師範者と聞き、そのようなお人であれば格別の高論もあるかと訪ねてみたが、案外な言葉をいただき、世上の俗物と変わることなく、いささかがっかりしもうした
智には上中下の三つありて、上智とは天性の聖人の如き者なり、中智とは学んで自然の妙に至るなり、下智とは世の流俗にしてそなたのような者を云う
下智には上智の人の心は理解できず、上智は学ばずとも自然の妙を心得たる者である

上古の太公望の類は東海に乱を避け、その後渭水(いすい)に釣り糸を垂れているだけで、下僕の一人も持たずいたが、文王の飛熊の夢により軍師として迎えられた
殷の紂王を滅ぼしたときには車に座して軍配を振るだけで、牧野の戦いで75万の敵を皆殺しにし、周家800年の基礎を作った
また諸葛孔明も太公望に同じく臥竜岡に棲める穏者、蜀の前主に仕え二十七で世間に登場して魏の兵を破り、一代の間に負けたことを知らず
太公望も諸葛孔明も一国一城の主として戦場にまかり出て戦うことなど一度もなく、最初より軍師として味方の軍兵を用い、大敵を打ち砕く、これが上智のいたす戦である
畳の上の兵法、真の戦場にあっては何の役にも立たぬと云うは、元来下愚の虚智をもって虚学を学ぶ者の言うことである
某は三百の兵も持たず、一村を持つものではない浪人であるが、豪傑の諸侯があって某を用いれば、攻城野戦に敵を砕き、味方に大いなる利をもたらすであろう」と一気に答えた。

これを聞いた松田は顔面に怒りを見せながらも「カラカラ」と笑い
「なんとも愚かな事よ、そなたは天下を駆け巡り、予こそ軍師として采配を振るうと申すが、異国は知らず、我が国においては誰が最初から実績無き者に軍配を任せ兵百人の頭とするものか
たとえ召し抱えるとしても、最初は三十貫、五十貫の禄を賜り、槍一本の主なり、戦場に出て一番槍の功名を挙げて敵首の七つ十を取って、見事な戦ぶりならば足軽五十人ほどをつけられ、その指揮良ければ士大将となり士三百も付けられる身分となり、更に一方の大敵を破る目覚ましき功あって、初めて軍師と認められ、一国の士の上に立ち、御屋形の傍に仕え、時には陣代として指揮を執る、なんぞの功もない人を一国に人無きように軍師とする国など、皇国には無い、いかなる知恵あったとしても槍一本扱えぬでは戦場に出てたちまち首を取られ、軍師どころではない」と言う。

勘介は、それを静かに聞いていたが「凡そ、軍師職たるものは下は兵糧を焚く人夫の業から、上は大将の行まで知らぬこと無し、いわんや武士一人前の業を成さずして口を開くなら、これは狂人の仕業である」と返した。
それを聞いて松田も「武士一人前の業と申すのは槍術なり、一番槍、二番槍と申す、もし仮の試合にせよ某とここで試合をせよ」と迫った