神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 28

2024年03月01日 18時55分20秒 | 甲越軍記
 教来石民部景政は今年18歳、累代の家柄で祖は摂津守頼光四代の孫、源三位頼政の後胤。
大手より一番乗りした景政は自ら槍を取って敵兵七人を討ち取り、更なる敵を求めていたところ、無人の野を行く如く向かうところ敵なしの平賀入道と出くわした。
互いに「よき敵」とたちまち一騎打ちが始まり、その激しさに周囲は誰一人として手出しできず、いよいよ無双の勇士二人の闘いはいずれが勝つともしれず、延々と続いた。

景政が槍を繰り出した瞬間、源心は樫棒を振り下ろすと槍は中途から真っ二つに折れて飛んだ
景政は直ちに槍を投げ捨てると、捨て身のもろ手で源心の懐に飛び込み抱きつくと、勢いに押されて源心はどっと倒れ、樫棒が手から離れた。
二人は今度は素手での取っ組み合いとなり、上へ下へとくんずほぐれつ転げまわった、これまた剛勇の二人故、なかなか勝負がつかない
源心は30人力とも言われる怪力だが、景政もそれに劣らぬ強兵ゆえに勝負がつかない
しかし、さすがの源心も年齢と昨日から続く戦の疲れが次第に出てきて足腰の踏ん張りにも力が入らなくなり、つまづき倒れ込んだところに景政が胸の上に乗っかり、ついに平賀入道の首を取った。
景政は大声を張り上げて「この頃、信州で鬼神と呼ばれた平賀源心を教来石民部景政が討ち取った」と言えば、城方の兵は「もはや守る者は失われた」と言って我先に城から逃れ出た。
それを勝ちに乗じて攻め方が追いかけて次々と首を取り、その数知れず、晴信の初陣はかくして余りある戦果を挙げたのであった。

やがて空が白々と明け、辺りが明るくなると晴信は命じて城内にくすぶる火を消させ、捕虜を先頭に源心の首を持って甲府館に引き上げた。
甲府に到着すると、信虎は源心の首を一瞥しただけで賞賛もせず
「源心を討ち取ったといえども佐久一帯にはいまだ残党どもが充満しているではないか、戦を知る大将であれば城に留まり、儂の元へ使者をたてて下知を待つのが当たり前であろう、二郎丸ならばそなたのような愚かなことはしないだろう
おまえは臆病者故、城を捨て急ぎ逃げて来たのだ、賞するなどもってのほかなり」と家臣たちの前で罵った。
晴信は慣れたもので顔色一つ変えず聞き流したが、周囲の家臣たちは皆信虎の罵詈雑言にあきれ果て憎んだ。

晴信は、初陣にて得た源信の首であったので大門峠(*信州白樺湖の近く)と言う地に葬り、地蔵尊の石像を造立した。
これ初陣の習わしで敵の首級を得たならば追福作善を行うのが古今の例である

昔、右大将頼朝卿が伊豆国から起こり給う時、八牧判官を夜討ちして、その首を得た時、走湯山の覚淵阿闍梨に依頼して法華経で霊を弔ったとか。




お寺にて、いろいろ思うこと

2024年03月01日 07時11分31秒 | 宗教
 2月中旬すぎには5月の温かさが続いていたのに、今は2月らしい灰色の空、寒い日々に戻った。
うるう年の今日は29日、4年に一度の2月29日、友引のこの日に伯母さんの葬送の儀式は行われた、まさかこの日に大谷選手の結婚します宣言を聞くとは、なんとも印象深い日になった。(記事は昨日書いた)

子供の頃は、お寺=お墓でずいぶん怖い場所だった
この年になってみて前職柄、住職とも親しく話すようになって
寺は博物館、美術館の要素が非常に高く、ご本尊もそれぞれ異なっていて、それを拝見するのもなかなかに楽しい。

若い人の葬儀は家族の顔をまともに見ることができないほど悲しいけれど、高齢者の葬儀は、なぜかみな思い出話をして穏やかな雰囲気のことが多い。
いろんな話の中で心に残ったのは、伯母さんの言葉
「こんな良い世の中になって、死んでなんかいられない、長生きする」という言葉だった、「こんな良い世の中」のフレーズがなんかほのぼのと爽やかだった
とかく、バブル時代を思い出して「今の時代は」とトーンダウンしてしまう自分が、伯母さんに「がつ~ん」と一発くらったような気がした。

伯母さんの一人息子である従兄は私と同期生で、妹の亭主とクラスメート、そして住職は一年先輩で、みな気心が知れている
この町では浄土真宗大谷派が圧倒的に多く、この寺は数少ない浄土宗、住職は19代目だとか、すでに20代目も40代半ばで、そろそろ代替わりか?
お御堂の正面の欄間が立派な彫り物になっているので見とれて、副住職に「いつごろのもの」かとお聞きしたら200年以上前のもので、狩野派の流れを組む職人の作品だと言っていた。
私は寺の中を見るのが好きだが、近年はセレモニーホールでの法事が多くなって、なかなか見られる機会がない。


コロナ以後、法事も大勢の人を集めることが無くなり、家族葬、近親者だけでというのが大部分だ
そんな時代だからこそ、寺院で葬式以外の法事をやっても良いのではないかと思う、寺院も昔と違って椅子を用意して正座ということもなくなった
暑さ、寒さ対策も気を使っている寺が多くなった、トイレだって最新式にしてあったり、寺の改革もずいぶん進んでいる。
改めて寺院での法事を見直すのも良いのではないだろうか。