甘利備前守が口を開き「まずは今川家へ密使を立てて義元の心を計りたまうことが先決なり
晴信公の御元服、任官などすべて今川公が京都将軍家に推挙されたからで、晴信公に傾くやもしれません
今川殿の心を結び、長く心変わり無きように仕向けるには、君の御心を理解している腹心の人を遣わせるべきであります」
そう言うと一同みなこれに賛同して、あれよこれよとそれぞれが名を挙げるがまとまらず、板垣駿河守が言うには「この使者は智弁ともに優れた者でなければ勤まりません、今井市郎は若年ながら、弁舌に優れ、なお才智賢き者であります、この者を使者とすれば、まずや落ち度はありますまい」
すると信虎は「それならば、そのものを遣わすがよい」といとも簡単に聞きわけた。やがて今井を呼び出して書状を与え、さらに細々とした注意を与えた。
小山田と板垣もまた今井を呼び寄せて、信虎を欺いて今川家に押し込める密儀を重ねた。
今井は表向きは信虎の使者であるが、その実、信虎を今川家に押し込め廃去の事を頼む使者である。
老臣五人の連名の密書を渡された今井もまた是を大いに喜んで、「このままでは我が国は滅び去ることが目に見えております、某が使者となって必ずや義元公に信虎公の廃去を願い、晴信公を家督とする利害を説きます」
信虎は、このような謀議が陰で行われていることなど夢にも知らず、古老の人々の口車にまんまと乗ってしまった
「天地は推りつべし、人心は計るべからず」というが、まさにこのことである。
信虎は晴信を追いやる計画が着々と進むことに気を良くして、これら五老臣を招き、酒宴を催した、数刻に及ぶ酒宴が終わり各々信虎館を辞して、互いに目と目を合わせて家々に帰った。