晴信の馬回り、多田三八は晴信に近づく見知らぬ武者を認めた
雑兵ではない歴戦の強者であることは一目で見抜き、不信に思い近づいて声をかけた
「そこの両人、見かけぬ風体なれど見事な武者ぶりかな いずれの御家中であるか」と問いかけるが、二人共答えないので合言葉を言ってみた
当然ながら返答はない
「曲者じゃ! 逃がすでないぞ」多田が大声で叫ぶと、これまでと二人は大声で名乗りを上げた
「諏訪信濃守頼茂が士大将、渋江内蔵助 同じく藤森三郎左衛門なり
先敗の恥辱をそそがんと大将武田晴信に見参せんとここまで慕い来たり」
と言い放ち、手にした生首を武田勢の中に放り投げ、太刀を抜き放つと、今が今生の別れと武田勢の中に切り込み、決死の太刀先に武田の兵も思わず割れてしまうほどの勢いで切り寄せて馬上の晴信に迫った
渋江内蔵助は一躍りして飛び上がると晴信の近くに駆け寄った
その時、多田三八も馬を寄せるやいなや、馬上から飛び降りて渋江に組みかかる、双方ともに剛力怪力の勇士であるから力量も互角、上になり下になり、三転び、四転びするうちに渋江の隙をつき三八は渋江の物具の隙間より脇差で二度まで突きさすと、さすがの渋江も弱ったところで三八は首級を上げた。
この功績で多田三八は戦のあとで多田淡路守を贈られた。
今井市郎は今朝より敵を七騎討ち取り、今は総大将の床几をもって控えていたが、床几を投げ捨てると藤森に駆け寄り、怪力で藤森を抑え込んで首を掻き切ろうとした
ところがそこへ、主人を追って駆け付けた藤森の若党悪三郎、悪四郎の二人が近寄り、槍を投げ捨てて脇差を抜き放つと、横合いから主人の首を取られてなるかと上になっている今井市郎の脇腹鎧の引合に深々と刀を突き刺した
それでも今井は崩れず、片手を伸ばして悪三郎の背から持ち上げて投げ捨てる
そこに安間三右衛門が駆けつけ、悪三郎の首を取った
そして立ち上がった今井の脇腹に悪四郎が長槍を深々と突き刺したが、今井は倒れず、ついに藤森の首を掻き切った
そこへ悪四郎が今井にとどめを刺さんと近づくところに、今井は「おのれ小冠者に槍突けられた悔しさよ!」と叫ぶと抜き打ちに太刀を振り下ろして、悪四郎の額から胸まで切り下すと、悪四郎は声もなくどっと倒れた
されども今井市郎も二度の深い刺し傷によって亡くなった、まことに惜しむべき勇士であった。
晴信は三度、台ケ原から陸に上がる間道を上っていった。