信虎の一行がいよいよ今川領に差し掛かると、今川義元自ら護衛の兵を引き連れて舅の出迎えに来ていた。
今川の先導で無事信虎ら一行は駿府の今川館に到着した。
さっそくに信虎を迎える饗宴が開かれて、信虎は歓待に満足げであった
宴が終わると、信虎は一間に案内された、そこは襖から障子、衝立に至るまで竹の絵が配されており、武田館の信虎の「竹の間」を思わせるものであった。
信虎はこれを見て、義元の歓迎ぶりを改めて認識した。
ところが翌日になって見れば、いつの間にか、この部屋に軟禁されていることに気づき「これは如何したことじゃ、無礼にもほどがあろう」と叫ぶと、義元がやってきて言うには「甲州での舅殿の人を人とも思わぬ悪行に臣も領民も皆怖れていることは聞き及んでおります、また長子晴信は際立った才を持ち、且つ孝心にも厚い御曹司であるものを、これを廃去して二子信繁に家督を相続させるのはいかにも大きな過ちでございましょう
このままでは甲州に大乱が起ること間違いなく、某も親戚のこととて危惧いたしました
今日のこの企ては、老臣たちが途方にくれた末のことです、こうなった以上、帰国の念は捨てて舅殿には駿府にて、ごゆるりと余生を過ごし下さい」
義元の、落ち着き払って理路整然とした意見を聞いて、信虎は思いを巡らせて首を垂れた。
異国の地に取り込められて、初めて信虎は我が身を振り返って冷静かつ客観的に己を見つめることが出来た。
そして思うに(孝子である晴信が親を捨てる不孝を行うとは、よくよくのことであっただろう、老臣ともども予を見限ったのは、これこそ身から出た錆、どの面さらして甲州に戻られようか、もはや騒いでみてもむなしい)
そう思うと流石は甲信に名をはせた胆力ある剛勇の大将、きっぱりと今の境遇を受け容れると同時に甲州への未練も断ち切ったのである。
それ以後は甲州での信虎は何であったのかと思うほど大変身を遂げて、心穏やかになり禅宗の僧侶らと交わりを持って禅瞑想にふける日々を送った。
後に今川義元公が桶狭間にてお討ち死になされた時には、晴信が何度も信虎を「甲府にお戻りください」と誘ったにもかかわらず、彼は、それを断り京に上って菊亭(大納言晴季)の基で暮らした。
信虎は長命を保ち、晴信(信玄)が亡くなった翌年に80歳で生涯を終えた。
甲府では、この大事件で騒然としたが、晴信の堂々たる態度、老臣たちの一致した深慮に、まず典厩信繁が歩み寄り兄晴信に臣下の礼を取ると、信虎股肱の臣もまた晴信の家督相続を認めて背く者はなかった。
それらの主だった重臣は晴信御舎弟孫六信連(のぶつら)、小幡織部正虎盛、浅利式部少輔信音、諸角豊後守昌清、教来石民部景政、小山田弥三郎、皆晴信に目通りして忠誠を誓った。
甲州の民も皆これを喜び、これより晴信は武田家第十九代の家督相続を給う
晴信御年十八。