楚の人、申包胥の曰く「天定まって而してのち人に克ち、人定まって而してのちに天に克つことあり」
暴虐不仁の信虎であるが、いったん時勢を得て心のままに栄えている
天文六年までに一族類葉の人々を滅ぼし、あるいは従えて今は甲州に弓ひく者は一人もいない。
駿河は富士郡、下方郡まで切り取り、信州は平賀を攻め滅ぼし、佐久郡までも掠め取ったが、暴悪の性によって心から服する者などいなかった。
また累代の忠臣と言えども小身の者は身上を没収され、あるいは誅殺された
そのような心は晴信にも向けられ、晴信の他を超越した才能を妬み、なんとしてでも二男信繁に家督を譲ろうと謀り、晴信に少しでも落ち度があれば、それを理由に廃嫡しようとすれども晴信は一分の隙も見せることが無かった。
その年はいつとなく暮れて、いよいよ信虎の頭の中は晴信廃嫡のことでいっぱいになった、どのようにしてくれようかと頭を悩ませていた。
今川家は当時足利家の一族で、代々諸礼故実の家柄であるのを思い出し、諸礼稽古を口実に晴信を今川家に誘い進めてここに追いやり、その間に信繁に家督を譲る方法を思いついた。
正月二十日、板垣駿河守を呼んで「汝、晴信のもとに行き、こう申せ、今川義元の推挙で官位も賜った、今川とそなた(晴信)はまことに懇意の間柄である
晴信の性格は愚かではないが辺鄙な田舎育ちであるから、なんとなく諸事に無骨なところがある、こののち自然に上洛の機会も訪れて高貴な方々にお目見することもあろうが『田舎人よ』と笑われることも悔しいであろう
すみやかに駿河に参って義元に従い三年五年の間、諸事作法を見習って参れ、と申し付けよ」
これを聞いた板垣はすぐに(これは晴信君を廃嫡するつもりだな)と悟ったが顔にはあらわさず、晴信の館に出向いて「これこれしかじか」と話すと晴信もそれを聞き、漠然として信形の顔を見つめたまま声を発することがなかった。
それから信形を近くに招いて
「館が某を今川に遣わせる下心は晴信を追い落とし、左馬之助に家督を譲ると言うことではないだろうか、汝は館の真の胸の内を知らぬことはあるまい、包み隠さず申すがよい」
信形は晴信の耳の近くに顔を寄せて囁くには「某も館の真は知り申さぬ、されど晴信さまのご明察と某が思うところは一致しているかと思われます
たとえお屋形を諌めようとも、聞く耳持たぬは明白、甘利備前守、飫富兵部少輔を招き御評定を巡らせて当家の長久の方策を立てるべきと」と答えて信虎の元に立ち帰り
「仰せの通り、晴信さまに申し上げたところ『かしこまり賜る』とのお返事を承りました、『されど今節多少の疲れがありますので暫しの猶予をいただき、それから駿府へ赴きます』との返事でありました」
これを聞いて信虎は不審の面持ちになり(一言の不審も申さぬとは聡明な晴信であるから、もしや気づいたのではあるまいか)と思った。
晴信は屋敷に甘利、飫富を招き、更に穴山伊豆守信行、小山田備中守も招いた、板垣は言うに及ばず。