武田左京太夫信虎、忠功の臣を軽んじて土くれのように滅ぼしてしまう、貴重な進言を取り上げず、さらに嫡男晴信を廃して自分が愛する二男の信繁に家督を譲る企み、すべて驕慢で残忍な性格がなする技であった。
しかしそれもいよいよ廃れる時が近づいていた、臣子に疎まれて今度は自分が廃される計画が進んでいるなどつゆ知らず、いよいよ晴信へ駿河入りする催促は増えるばかりである。
ところが晴信は、病気を盾にして駿河行きを断固として断り続けているので信虎は怪しみ、(奴は儂のたくらみを察しているのではないだろうか、ならばいよいよ謀を持って、なんとか晴信めを駿河に贈らねばならぬ)と阿諛(おべっか使い)の家臣を呼び寄せて「いかにして晴信を追い払うか」と聞けば、「国の一大事につき、我らよりも長臣の方々を呼び寄せて晴信君廃嫡と申されれば、御屋形様の御威光に彼らもひれ伏して背く者などおりますまい」
信虎は、まさにその通りであるとさっそく2月11日に板垣を呼び寄せて小声で
「我は未だ壮健であり、年齢も十分余りあるが若い時から長い年月、戦に明け暮れて最近疲れが抜けることが無くなり、物忘れもするようになった
それで早いとは思うが早々に隠居して、三人の息子の内の一人に家督を譲ろうと考えて居るが、未だ誰にするか思い迷っておるのだ
誰であれ、この国を守り、隣国の敵を撃ち払う力を持つものに譲ろうと考えて居るが、そなたは誰がふさわしいと思うか、そなたは我が家において一番の古老であるから忌憚なく、意見を申すがよい」と日頃とは打って変わって物腰柔らかく言うので、板垣は
(これは家嫡廃去の密談であろう、下手なことを言えば我らの密儀が明るみに出る、これを逆手に取れば我らの思い成就させる渡りに船となろう)と思い
謹んで言うには
「これはまた御屋形様の御言葉とは思えませぬ、『子を見ること親にしかず』と申します、子の善悪は親がもっとも知るところであります、まして眼力高い御屋形様であれば、御子らの器はすでにお見通しであられましょうし見誤ることなど決してございませぬ、御心のままにお決めになるのが宜しいと存じます」
板垣の殊勝な言葉に信虎は嬉し気な顔となり「わが数子の中で抜きんでている者はただ一人、左馬之助信繁である、この者に家督を譲ろうと思う、予の心中はさように決まっておるが、世間は長子あるのに二子に譲るのは不条理と申すであろう
晴信は嫡子であり武勇にも優れているから、すんなりとは信繁の家督に納得せずひと悶着起こるのは必定と見ゆる、そこでまず家督を定める前に、晴信を今川家に送り、晴信を廃去してのち家督を信繁に定めようと思って居るが、晴信めもこれを薄々気づいておるのか、ああこう言ってなかなか腰をあげようとしない
いかなる計略で彼を今川に行かせるか、汝は家の為に熱く計略を巡らせるべし」
板垣はこれに答えて「諺に『智者も千慮すれば一失を生じ、愚者も千慮に一得を生ずる』と申します、君は明智と言えども御身にかかる事故に智術心策を失い給う、某のような下愚であっても晴信公を欺き、今川家へ送ることは何の知謀もめぐらすまでもありません
世の諺に『目を塞いで燕雀を捕らんとするときは、燕雀も是を欺く』と申します、小畜と言えども慢心をもっていれば欺くことはできません、まして怜悧の晴信公では欺こうとすればたちまち見破られてしまいます
某の考えは、まず今川殿の方に使者を送り、晴信公を駿河に遣わせたら長くそこにとどめ置かれるように、他国へも出さぬように、よくよく示し合わせておかねば成就しません、それはなぜかと申しますと・・・・」