十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

3つの輪廻

2022年06月10日 | 佛教

 知恵袋で輪廻転生について、質問があったので次のとおり回答したので、ここに記録しておく。

 

 輪廻はサンスクリットの原語サンサーラは「流れること」「転位」を意味します。つまり、物事が法則に従って動いていくさまをいうのです。
それを漢訳された時に輪廻としたのです。壊れた輪が蘇るそんな意味は飛躍がありすぎるでしょう。

 生死を繰り返す様を輪の回りに例えたという説もあります、むしろ、こちらが主流です。

 さて、そんな輪廻転生説を唱えたのはバラモン教です。バラモン教では輪廻の主体をアートマンという霊魂だとしました。アートマンは不滅であり、輪廻から解脱しないかぎり永遠に苦しみの生死を繰り返す、解脱するには長い期間の苦行をしなければならないのです。解脱することができればアートマンは天に上り、ブラフマン(梵天)と一緒になります。梵我一如とか梵我合一とか言われ、もう生まれ変わりることはなくなるというのです。

 お釈迦さんはその修行に挫折されます。絶望のあまり、菩提樹のふもとでへたりこまれたのでしょう。7日7晩、坐り込んで8日目の朝、明けの明星を見た途端、悟りを開かれたのです。

 お釈迦さんの悟りは輪廻の根源たるアートマンの否定です。代わりに縁起説が唱えられました。無我です。アートマンの否定で輪廻転生思想は終わりのはずですが、そうはいかなかったのです。

 世の中は輪廻を信じる人ばかり。お釈迦さんが解脱されたとしても特別な人扱いだったのでしょう。

 輪廻思想は無くならず、輪廻の理由が業に置き換えられたのです。

 その業とか縁起というものは、一本つながりで論じられるものでなく関係するものは無数にあり、それが皆関係しているのです。

 生命のような複雑なものが、こうすりゃこうなるというようなトンコ節のような簡単な因果で生じるものではありません。

 生命は心理の問題であり、生理の問題であり、物理の問題です。心理だけでどうかなるものでは決してありません。 

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晋山結制式を見かける。

2022年05月12日 | 佛教

先週金曜日、毎日のサイクリングコースにある曹洞宗の寺院、南詢寺で多くの坊さんが集まっているのが見えた。

帰り道に自転車を止めて、覗いてみると「晋山結制式」という看板が見えた。

晋山式とは、新しく任命された住職の正式な就任式であり、また、結制法要とは新住職が最高の法階である大和尚の位に就くための儀式である。

https://sgl.sixcore.jp/soto/ceremony/special/shinsanshiki

後から聞いた話では親父の住職が引退し、息子が跡を継いだそうである。

さもありなん。寺は建て替えられてから10年くらい。今時、寺の新築は珍しい。

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出家的に生きるために

2022年02月28日 | 佛教

仏教学者 佐々木閑 花園大学 教授のユーチューブのおける新しい講義が始まった。

「出家的に生きるために」というタイトルである。

的がついていることから意味的には在家の人達に向けたものと思われる。

在家者が出家的に生きるのは仏教を信奉する者にとって当たり前のように思われるが、かくいう私は在家得度を受けているのでそれに類するものと思っている。在家出家である。

この在家出家は在家と出家の折衷というような中途半端なものではなく、ある時は在家であり、また、ある時は出家であるといった生き方であることを知っておく必要がある。

さて、在家出家という言葉を使ったが、逆の出家在家という言葉が考えられる。

これは出家が家庭を持ち在家的に生きているという意味とすると、それは果たして出家と言えるのかどうか。

とすると、出家と呼ばれる方々も在家出家を生きるしかないと思う。

日本には例外はあれど在家出家しかいないのではないか、

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閻魔大王

2022年01月28日 | 佛教

今日の知恵袋で閻魔大王について、質問があったので次の通り回答。

(回答)

閻魔さんは裁判官でありかつ地獄の支配人でもあるのです。
資格のない者は地獄に入れません。そのためにまず裁判が行われます。
裁判されるところは閻魔庁。
裁判の時は閻魔さんは浄玻璃(じょうはり)鏡という何でも真実を映す鏡を持っておられて亡者の過去の行状があぶり出されるのです。その一切余すところなく書き込まれた裁判記録が閻魔帳です。

閻魔さんは地蔵菩薩の化身と言われており、お優しく少々の罪は許され他の道を行くことになります。
極悪甚重の人間のみが地獄への入門を許されるのです。

人間ごときが簡単に地獄行きなんて軽々しく言ってはいけません。閻魔さんの権限を侵すことになります。こういう人は舌抜きの刑に処されると広報されています。ハイ。(笑)

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仏教は無神論か?

2022年01月27日 | 佛教

今日の知恵袋で表題のような質問があったので、次の通り回答した。

(回答)

仏教は自己が根本ですから、自己の他に超越的存在を認めません。
従って、厳密には無神論です。

しかし、元からあるとされた神々の存在を否定していません。全部守護神という形の眷属にしてしまったのです。

インドの梵天、帝釈天というような天部の神もいれば、日本では神道の神々も取り込んで神仏習合という形が生まれました。

仏教は素朴実在論、有りと認識すれば有りなんです。
だから、ありもしない輪廻思想なんかも残ってしまっています。ないと認識すれば消えてなくなるものでしかないのですがねえ。(笑)

 東寺 帝釈天坐像 国宝

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鉄眼和尚の偉業

2022年01月22日 | 佛教

 今日のユーチューブの佐々木閑教授の講座で鉄眼(てつげん)和尚の大蔵経開版や飢饉による救済活動等偉業について語られていたので紹介したい。

 鉄眼和尚ゆかりの寺、鉄眼寺は私が2年勤めた勤務先と道一つ隔てたところにあって、2階から境内がよく見えた。

 黄檗宗の禅寺で坐禅会も行われていたので、何回か参加したこともある。

 寺の名は瑞龍寺だが鉄眼寺は俗称である。

 https://www.youtube.com/watch?v=plfECSYZ728

 

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花園大学 佐々木閑教授による公開講座「法顕のインド求法記に学ぶ」のお知らせ

2022年01月04日 | 佛教

 ユーチューブで佐々木教授の講話が公開されたので、紹介します。

 

公開講座のお知らせ 「法顕のインド求法記に学ぶ」(国際仏教興隆協会文化講座:講師 佐々木閑)

(公開のお知らせ)

https://www.youtube.com/watch?v=f9_ZXDbTORM

(講座)

https://www.youtube.com/watch?v=4JsvIPbwQ9A

(テキスト)

https://www.ibba.jp/wp/images/2021/12/2020lecturemeeting.pdf

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仏舎利、受け入れ騒動(完)

2021年12月23日 | 佛教

紆余曲折があったが、名古屋に覚王山日暹寺が創設され、境内に仏舎利の奉安塔がられた。

経緯は佐々木閑教授の話を、ユーチューブでお聴きになってください。

https://www.youtube.com/watch?v=Q9pvwAZDlCk

https://www.youtube.com/watch?v=_bLdbJVi8bo

https://www.youtube.com/watch?v=sNZQvJIdBI0&t=915s

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仏舎利、受け入れ騒動(3)

2021年12月17日 | 佛教

佐々木閑の仏教講義 4「仏教再発見の旅 126」が本日ユーチューブにアップされる。

仏舎利を安置する覚王殿をどこに造るかで行われた建仁寺における会議の様子を解説されているが、坊さん同士の喧嘩も俗人と何ら変わらないところを描写。面白すぎる。

https://www.youtube.com/watch?v=hj5PCjjjeIQ

建仁寺


https://www.kenninji.jp/about/

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仏舎利、受け入れ騒動(2)

2021年12月15日 | 佛教

 仏舎利が日本の長崎に着いて、京都に運ばれるまでを佐々木閑先生が解説。結構、面白い。写真は五条大橋の様子だが橋の欄干に腰掛けたり大勢の人が詰めかけた。

佐々木閑の仏教講義 4「仏教再発見の旅 125」

https://www.youtube.com/watch?v=Ew3hf3tusF8

 ところで、変なところで思い出したことがあったので、書いておこうと思う。

 受け入れの使者として赴いた四人の中に、東本願寺大谷派の大谷光演(別名句仏)いた。この人は俳句で有名な人だったそうである。

この人について、澤木興道老師が面白いことを言っておられるので紹介したい。

「大谷句仏は大正時代、芸者の一万円のポチをやったというので有名だった。それでいて「モタイナヤ祖師は紙衣(かみこ)の九十年」(紙粉とは紙でつくった衣服)という句をつくった。区はいいが、一万円のポチを芸者にやる人間のつくる句か。」

明治三十三年仏舎利を受け取りの費用が1万円(現在の貨幣価値なら2億円)、大正時代の芸者のポチが1万円、貨幣価値の変動が著しい。

九十歳の祖師とは親鸞聖人のことと思われる。 

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日本にある釈迦の真骨、仏舎利の話

2021年12月13日 | 佛教

 私は花園大学 佐々木閑教授のユーチューブでの仏教講話を聴いている。教授のこの取り組みは昨年コロナ蔓延で対面授業ができなくなり、授業の一端を一般人にも聴講してもらおうと始まったものである。

 特に教授の専門分野である初期仏教について、知らないところが多かったので非常に勉強になった。

 1日20分に満たない程度の講話なので、苦にならない。仏教に関心のある方には聴講をお勧めしたい。

 今日の講話は、お釈迦さんのお骨、つまり、仏舎利が日本にタイ国から送られる話で、受け入れるに当たっての騒動が語られ、面白かったので紹介する。

「仏教再発見の旅124」
https://www.youtube.com/watch?v=02tAjBEeXZY

 それでその仏舎利はどこの祀られているかというと、名古屋市の日泰寺(無宗派)である。

https://news.yahoo.co.jp/byline/ukaihidenori/20210421-00233688

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12月8日は成道会

2021年12月08日 | 佛教

12月8日は成道会
お釈迦さんが悟りを開かれた日とされている。
勿論、新暦の日であるはずもないがこの日として記念の行事が行われる。

お釈迦さんはどのように悟りを開かれたか、私の思うところを書いてみる。

まず、6年の苦行の果に解脱を得られなかった。挫折も挫折であって絶望の極みにあったのではないかと思う。
何の見通しもなく菩提樹の木の元にへたり込まれた。
死ぬなら死ねと死ぬ気で7日7晩不眠不休で坐り続けられたのだと思う。
瞑想なんかじゃなく只管打坐である。瞑想なんかは苦行の間に嫌というほどなされたに違いない。それは頭の中の葛藤である。

ただ坐り込んだがゆえに我が抜けて無我の悟りを得られたのだと思うのである。

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数の単位で無量大数以上があるという話

2021年10月03日 | 佛教

 以前からヤフーの知恵袋で回答を書いているが、その中で面白い問があったので、回答した内容を記述する。

Q: 数の単位について質問です。 先日ある動画を見ていると、無量大数以上の単位が複数出てきて驚きました。 仏教の世界で使われていると聞いたのですが、本当ですか? また、10の〇〇乗の〇〇の部分、なぜ単純な倍計算ではないのでしょうか。 そもそも使われる時ってあるのですか?

A: インド人は数を数えるのが好きだと聞いたことがあります。 0を発見したのもインド人。

今、その動画を見たばかりですが、すごいですね。

 無量大数までは冪指数に4ずつ増えていく法則性がありますが、次の矜羯羅(こんがら)からは法則性があるように思えません。 こんがらがって使用不能で普通は単位として認めないということでしょう。こんがらがるという言葉もこの矜羯羅から来ているのでしょうね。

阿僧祇が2回出て来ています。これは?です。

「無量大数より大きい数の単位」
https://www.youtube.com/watch?v=ruSJZ32MLwg&t=72s

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坐禅と瞑想の違い

2021年08月23日 | 佛教

 今年の年頭、下のような文章を紹介したので、まず、参照してもらいたい。

 道元禅師は坐禅のあり方を3つに分けておられる。それは他ならぬ龍樹祖師の言葉であるという。

 その3つは、諸仏菩薩の坐禅、外道の坐禅、二乗の坐禅である。外道の坐禅、二乗の坐禅を近頃これを瞑想と呼んでいるようである。

 元々漢訳仏典には瞑想という言葉出てこない。瞑想は戦後使われるようになった言葉である。文字通りとすれば「目を瞑って想う」、この瞑想をある人は精神集中だと言う。これって結局思いを固定することではないか。また、気づきだと言う人もいる。これも想いを追っているということではないのか。そのことに気づいていない。

 結局、瞑想は念、想、観の測量であると結論づけたい。それは利益、有用のための手段、内山老師の言葉通りである。

 ところが、残念なことに瞑想という言葉が禅門の僧侶に安易に使われていることである。どこかの大寺の管長まで堂々と使っている。汚染がここまで進んだかと思いがしている。

 では、仏菩薩の坐禅とどういうものか、道元禅師の言葉を主に列挙してみたい。

 只管打坐、身心脱落、修証一如(初心の辨道すなはち本証の全体なり、不思量(念、想、観にあらず)、不得不知、発菩提心、無我、縁起、空、澄浄、無色透明、帰命、無所得、無量無辺、尽十方界、生命の実物、畢竟帰処、頭手放し。

 話になりまへん。(笑)

 念の為に言っておくと、瞑想が駄目というわけではない。それなりの効用もあるのは認める。やりたい人はやればいい。
 でも、仏菩薩の坐禅と同列に扱ってほしくないし、ましてや、道元禅をアップデートして坐禅瞑想をなんて言葉を考え出す坊主は許せないね。

 

「以下再掲」

道元禅師の著書に以下のような言葉がある。坐禅にもいろいろあるということである。

『龍樹祖師いわく。坐禅はすなわち諸佛の法なり。しかも外道も亦坐禅あり。
しかりといえども外道は着味の過あり。邪見の刺あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず。二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず (永平広録 巻七)』

それについて、内山興正老師が解説されていて、以下は「自分と自己」という文章の一部引用である。

【つまり外道の人もーーたとえばインドのヨガの人なども坐禅するし、日本の生長の家の人でも、神想観といって坐禅みたいなことをやるわけです。「然りといえども、外道は着味(じゃくみ)の過あり、邪見の刺あり」と出ていますが、何か色合いがついている。味付けがしてあり、坐禅すると健康にいいとか、頭がよくなる、とかいう。インドの人たちは、坐禅して昇天の福を得ようとか、来世は天人に生まれ変わろうというのが殆どで「ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」といいます。

 それから又「二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」とあります。いま南方佛教の人たちは、坐禅してだんだん煩悩を細めていって、最後にはそれを全く無にするという。これはいわゆるの「自調の心」であり、最後には煩悩を断滅してニルバーナをえようというので、そういうつもりになっています。

 ところが「諸佛菩薩の坐禅」というのは、これに反して「坐禅はまっすぐにただ坐禅する」という一事に尽きます。坐禅するーーただそれだけで、何の「つもり」ももたない。これが本当の坐禅であり、これを「祇管打坐(しかんたざ)」といいます。

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日本で、そして世界で宗教が捨てられようとしている(島田裕巳氏)

2021年06月30日 | 佛教

ネット上で表題の記事を見つけたので、紹介しておきます。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75370?page=1&imp=0

気休め宗教は減少しつつあるということでしょう。

しかし、自分とは何か、どう生きるのかという根本的な課題はやはり宗教に学ばざるを得ないでしょう。

 「行き先に我が家ありけりカタツムリ」

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