十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

お釈迦様誕生日

2021年05月18日 | 佛教

お釈迦様誕生日は伝説では4月8日ということになっている。

日本では新暦の4月8日に灌仏会という行事が行われている。

しかし、元々は旧暦で行われて来たのであり、明日5月19日が4月8日に当たる。

そのため、旧暦で行事を行う寺もある。

韓国では釈迦誕生日ということで今日が祝日になっている。

お釈迦様はルンビニというところで生まれられたが、インドでその場所がは仏教が滅びたため出生の場所は長らく不明になっていた。

1896年イギリスの考古学者がアショーカ王碑文を発見。釈迦生誕の場所が特定されたということである。

石柱の土に埋まったところに古代インド文字で碑文が彫られアショーカ王か建立したものだということがわかった。

下の写真は花園大学 佐々木閑教授が所持の本にあるものである。

ピアダシとはアショーカ王のことである。

佐々木教授の講義は、次の動画を参照。

https://www.youtube.com/watch?v=3QrL271Wdhs

https://www.youtube.com/watch?v=alJpjo08NI0

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安泰寺の修行

2021年05月17日 | 佛教

先に紹介した昨日のBS1の安泰寺を修行する放送をご覧になりましたか。

以前からNHK神戸支局が取材してきた映像をまとめたものでした。

ユーチューブに5回分ありますが、最近分はネルケ無方さんのツイートの中にあります。

見逃した人はそこからご覧になるとよいでしょう。

https://twitter.com/MuhoNoelke/status/1393933756851920899

何にもならぬ坐禅を年間1800時間、どうなんでしょうね。

P.S

 17日の大阪のコロナ感染者382人に、連休中の自粛のせいのよう。ちょっと安堵!!

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BS1スペシャル「何も求めず ただ座るだけ ~自給自足の禅寺 安泰寺の1年~」

2021年05月15日 | 佛教

表記タイトルのBS1放送が、5月16日(日)後10:00に予定されているのでお知らせします。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/trailer.html?i=29259

出演者ほか

【語り】小雪

内容

「何も求めず、ただ座るだけ」。年間1800時間に及ぶ座禅。禅で理想とされる自給自足の生活。兵庫県北部の山奥にある禅寺、曹洞宗・安泰寺。田畑で続く肉体労働、雑念にあらがい続ける長時間の座禅。厳しい修行で己を見つめようと、海外からも多くの修行者が集まる。「生きる意味」が分からず、深い悩みを抱える若者の姿も。一体、修行者たちはどんな答えに近づくのか。1年に渡って山寺を取材し、その修行の日々を記録した。

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瞑想と坐禅ってどう違う?

2021年05月12日 | 佛教

ツイッターに次のようなツイートをする人がいた。

「瞑想と坐禅(ざぜん)ってどう違う?」

それに対して、ネルケ無方さんが、

「瞑想と坐禅ってどう違う? 瞑想は坐って行う精神修養。目は瞑る。 坐禅は坐ることに+αしない。目も瞑らない。 …という理解がもっともシンプル 。

瞑想の目的: 自分を見つめたり、自分を無にしたり… さまざま。 坐禅の目的: 特になし。」

とツイート。

そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん。

こんな書き方では+αのある方がいいじゃないかとなってしまう。

そもそも仏法としての坐禅と瞑想とを一緒にするのが間違い。次元が違うのである。

道元禅師は修証一如と言われている。坐禅が悟りだというのである。それで完全であり完結している。それに+αなんて考える余地なしである。

+αがどんな立派なことであったとしても仏法からすれば煩悩に過ぎない。内山老師のいう頭の分泌物だ。

そこで、私もツイート。

「瞑想は迷想、所詮は考え事です。 漢訳仏典には瞑想という言葉はありません。」と。

道元門下の僧侶が瞑想なんかに関わっては駄目だ。
なのに、道元禅のアップデートなんていう山下某のような僧侶も出てくる。

宗門の行く末が案じられる。知らんけど・・・。

 

というようなことを書いていたら、ツイートした人から今「いいね」が帰ってきた。

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コロナ禍に身動きならず只管打坐

2021年05月04日 | 佛教

「コロナ禍に身動きならず只管打坐」

この句は五七五調だけれど、季語がないし生活を詠んでいるので川柳のつもり。

英国型の変異ウイルスが蔓延してきて日本中が大変な状況になっている。

平生は何かと動き回っていてじっとしていることに慣れていない人はそれがストレスになっているようである。
私のように一人でいることに慣れているものはそのようなストレスはない。

今朝のニュースで屋外の宴会でクラスターが発生していることが報じられていた。
さも有りなん。淀川の河川敷をサイクリングしていてもよく見かける光景だが、屋外だからと大声出して食事したりしている。

やはりあの光景はヤバいなと思う。

というのは、サイクリングしていたら子供がシャボン玉をしていてそのシャボン玉に出くわすことがあった、うっかりしていたらその流れの中に突入、思わず息を止めた。

その子が感染者ならウイルスを撒き散らす様子ということになる。

その点、家で坐禅でもしているのが一番。お勧め!!

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4月8日灌仏会

2021年04月08日 | 佛教

4月8日は灌仏会、釈尊の誕生を祝う日である。西暦導入以前は旧暦で行われていたが、新暦採用により今日が釈尊の誕生日として灌仏会の行事が行われる。

桜の花の咲く時期に当たるので、花祭りと言われるようになったようである。

寺院によっては旧暦で行事するところもあるようである。

国によっては、釈迦の降誕日が祝日指定されている国もある。

タイ     5月26日
マレーシア  5月26日
カンボジア  4月26日
韓国     5月19日

仏教国と思えるスリランカ、ミャンマーには仏教の祝日はなく、イスラム、ヒンズー、クリスマスの祝日がある。

因みに4月8日は私にとって、結婚記念日である。お陰様で長らく連れ添って金婚式も近い。

結婚式場を申し込みに行った時、4月8日は日曜日で絶好の日、それが空いていた。何故か。実は仏滅だったのである。家族で難色するものもいたが、お釈迦さんの誕生日ということで押し切ったのであった。

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念想観とは何?(2)

2021年03月09日 | 佛教

 先に「念想観とは何?」で書いた後の後日談である。

 念想観について、諸兄は私の解釈で了解して頂いたのだろうか、いろいろな解釈がある中でスッキリしない人もおられるのではないかと思う。

 あの後、普勧坐禅儀の本をネットで検索すると、なんと古本で値段がたったの1円送料350円というのが見つかった。

 業者は「もったいない本舗」、本・CD等の中古品の買取、販売している業者だった。売れないし紙くずにするのももったいないということで1円で売りに出したのであろう。

 本は西嶋和夫老師の著作、老師は在家の時に澤木興道老師の教えを受け、後に丹羽廉芳老師のもとで出家、嗣法した人である。

 ドーゲン・サンガという坐禅の会を指導されていて私も一時期それに参加していたことがある。

講座のまとめ:一部紹介  http://gudoblog-j.blogspot.com/2006/06/blog-post_08.html

 さて、西嶋老師は念想観について、どう言っているかというと、『「念」というのは、というのは、ごく普通に心の中に生まれてくる想念、「想」というのは、意識的に考えられた内容、「観」というのは体全体で感じられた内容』と、念・想・観と明確に分けて解釈されている。

 年想観なんておかしな観があるわけないのである。

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「自分と自己」(内山興正老師著)について(変更)

2021年02月24日 | 佛教

 積年の垢いうべきゴミのようなものが家の中に溜まりに溜まって整理を始めたところです。

 そうすると物入れの奥から内山老師の書かれた「自分と自己」という冊子が20冊ほど出てきました。

 昭和54年に発行されたもので40年も前のものです。大量に仕入れて関心のありそうな有縁の方々に配りもしましたが残りをしまい込んでそのままになっていたものです。

 捨ててしまうのも勿体ないし、今回欲しい方に無料でお分けしたいと思います。

 まずはメールでお申し込みください。

メールには次の項目を書き込んでお送りください。

 1 氏名
 2 住所
 3 メールアドレス
 4 年齢
 5 何時頃からブログを御覧いただいているか、お教えください。


 「自分と自己」

   内山興正著

   曹洞宗発行

   禅の法話シリーズ5

   昭和54年3月26日発行

   B5サイズ 28ページ

  目次
   ・ 出世コースを外されただけでノイローゼ

   ・ 人と人と出逢うと狼である

   ・ 水引きの喧嘩半ばの俄か雨」的な道

   ・ 一切は私の生命の風景である

   ・ 思いとはアタマの分泌物である

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念想観とは何?

2021年02月24日 | 佛教

 普勧坐禅儀には「念想観の測量を止めて」とあり、また、正法眼蔵坐禅儀には「念想観にあらず」とある。これについて前に自説を展開したところである。

 今回、ネット上で普勧坐禅儀の解説文を拾ってみると次のように多岐に渡ることが分かった。

分類してみると、念想観を一つの観とみるもの。

「思いを一つに固着させようとなどというはからい」
「思慮分別をめぐらしてある一つの観念をすること」
「自らへと向かう思慮分別の働きである」

曖昧だが一括の言葉として解釈していると思われるもの。

「思慮分別をめぐらしていろいろ考えること」
「頭で何かを考えること」
「一切思量を巡らすこと」

念想観を念、想、観と三つの働きとみるもの。

「心に念が浮かぶことも意識に想像することも、何かを観じるという認識作用も働かせること」

 私の考えと同じなのは最後の1件だけである。

 驚いたことに前段の三つは曹洞宗の僧侶のものである。


 しかし、澤木興道老師は「坐禅の仕方と心得」という本の別のところで念想観察という言葉を使っていたのでここも念、想、観と心の働きを分けて考えていたのだと思う。

 ところが最近、念、想、観を重視する坐禅、瞑想なるものがりに関心を持つ人が人が増えている。

 念・重視のマインドフルネス。想・重視の瞑想、観・重視の五感禅である。

これは心を念、想、観に集中することで、コロコロする心を繋ぎ止める働きがある所詮は心の問題、頭の働きの問題である。

 下図は内山老師の「天地いっぱいの人生」という本にある老師の自作の挿絵である。

 頭を空っぽにしてこそ首が繋がるのである。

 仏法つまり生命の実物は、不得不知(無知亦無得)、無我、空、尽十方界真実人体、無量無辺等、つまりは無限ということである。

 気づきがどうとか、何たらかんたら、有限なるものをいくら積み上げても無限には届かないのである。 

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安泰寺の冬景色

2021年02月17日 | 佛教

 NHK神戸で放送された安泰寺の映像がユーチューブにアップされていたので紹介します。

 日本海に近い盆地で雪が深いところ。修行僧が2人雪のために亡くなっています。

 私が受戒のために初めて安泰寺を訪れた昭和56年4月8日にはまだ山陰には多くの雪が残っていました。

https://www.youtube.com/watch?v=RR5qSsUDzp0&ab_channel=Antaiji

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俺のとは違うな~

2021年02月02日 | 佛教

 テレビはよく観る方で、刑事もののドラマが好きである。「相棒」は初回から観ている。

 10年ほど前には内野聖陽主演の「臨場」もずっと観ていた。鑑識の主任検死官である倉石が毎回口癖のようにいう言葉が「俺のとは違うな~」。周囲の人間とまるで見解が違うのである。

 私も「俺のとは違うな~」と思うことが結構多い。

 最近、道元禅のやり方について、瞑想やマインドフルネスとの違いを指摘してきたが、そんな中で安泰寺の前住職 ネルケ無方師の指導に関しても、疑問点がありそれを指摘しておきたい。

 というのは、2012年に「ただ坐る」という彼の著書が出版され、私も当ブログで紹介もしているからである。

 その中に書かれている、P166「坐禅中は、五感はいつもより活発に働かせなければなりません」というところである。

 普勧坐禅儀には「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」と書かれている。五感を働かせるということは念、想、観の観に当たる。彼も念想観と一つの言葉として読んでしまっているようである。念想に関する観ということで、それなら完全に的外れである。

 沢木興道老師はこの部分のところでないが、念想観察という言葉を残しておられる。これでは念想の観察と言うことではないのである。

 五感を働かせることの非は次の言葉で明確になるのではないかと思う。

 ・世間虚仮 唯仏是真 (聖徳太子)

 ・生死は名字のみあって実なし。世界の法の中には生死あれども ,実相の法の中には生死あることなし(大智度論)

 ・如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出、有ることなし。亦在世及び滅度の者無し。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。(法華経 方便品 仏之知見)

 世間、世界、三界とはそれぞれ我々のこれが世界と思っているもののことである。

 それらは真実にあらず虚仮だというのである。

 では仏のような見方とはどんな見方だというと生まれて間のない赤ちゃんの見ているようなもの。言葉で分別しないということだと思う。

 「坐禅中は、五感はいつもより活発に働かせなければなりません」これでは虚仮の世界に取り囲まれていることになる。坐禅中意識脳を働かしては駄目だと思う。

安泰寺本堂(帰命の扁額)

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いのちの坐禅(宇宙禅)の勧め

2021年01月21日 | 佛教

「心の坐禅か 命の坐禅か」というタイトルで道元禅の勧めを記事にしたが、今回はいのちの坐禅を勧めたい。

道元禅を沢木興道老師は「自分が自分を自分する」と言われたし、内山興正老師はそれを「命が命を命する」と言われている。

私はそれを「宇宙が宇宙を宇宙する」と言い直したい。

どこが違うか、只管打坐の坐禅は変わらない、ただ、坐る場所を宇宙の中心に持ってくるだけである。

百丈慧海和尚に「独坐大雄峰」という言葉ある。

僧が百丈懐海和尚にむかって、「如何なるか是れ奇特の事」(この世の中で、最も素晴らしいことは何ですか)と尋ねた。すると百丈は「独坐大雄峰」(この百丈山にこうしてどっかりと坐っていること)と答えた。

それに倣って、私は「独坐宇宙の中心」。それはどこかと言えば、尽十方に宇宙の展開がある、今、ここである。

宇宙の宇は空間、宙は時間のことである。宇宙とは時空のこと。時空の座標で言えば、(0,0,0,0)。

座蒲に坐る時に(0,0,0,0)に坐ると、決めるだけである。宇宙は勝手に回転する。

それが宇宙禅である。

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心の坐禅か 命の坐禅か(3)に追記

2021年01月19日 | 佛教

 そうすると山下氏の主張して止まない念(念)、瞑想(想)、観自在(観)は否定されてしまうのである。

(追記)

 念は覚え、想は想像、観は観察、それぞれは過去、未来、現在に対応していると読むべきでそうすればすっきりする。

(ラストに追記)

心は寝れば消える、命は死ねばお終い、いのちは不死、永遠である。
いのちから命が生まれ、命から心も生じるのである。

心をいじくっても命の問題は解決しない。

「生命力は宇宙力 宇宙力が生命力」である。
坐禅するしないに拘わらず知っておいてほしい。


コロナ感染者が9545万人(世界) 33.6万人(日本)

死者数     204万人(世界) 4366人(日本)

死者数が200万人を超え、感染者数も早晩1億人に達するような事態になってきている。

日本では入院できずに自宅待機の人が増えている。家族間の感染が増えるのが心配である。

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心の坐禅か 命の坐禅か(3)

2021年01月18日 | 佛教

 前に「瞑想は迷想」というタイトルで2回記事を書いたが、今回タイトルを変えて続きを書くこととする。(3)は初めから3回目の意味である。

 ここでいう心の坐禅とはマインドフルネスのことであり、命の坐禅とは只管打坐の坐禅のことである。

 理解しやすいように、図示して説明したい。


 上の図は生命の構造を簡略的に示している。
「命」は我々の個体的生命のことである。「いのち」とあるのは、「命」の根元となる生命のことである。宇宙生命のことである。

 さて、この「命」は「心」持っている。
「心」どうなっているかというと次の図のとおりである。この図は以前に紹介したものでありそのまま使用した。

 五感は五官で捉えた外部の情報を頭の中で情報処理し頭の中のスクリーンに映し出したもので、そのままが外部の状態を映したものでない。その映像は視力、聴力等に依存するところ大であるし、実物からの情報は時間的ずれが生じていて、認知する映像は全て過去のものである。

 たとえば、太陽の光は地球に到達するまで500秒かかる、見える太陽の姿は今とは違うし、位置も変わってしまっている。

 部屋の中にいるとして壁の向こうは記憶されたもの、知らなければ想像したものことになる。正確な情報のないものは空想である。

 心の世界は過去現在に集めた情報によりいろんなイメージによって仮想空間として出来上がっているのである。

 そして、畏怖すべきは次の図のように、その「心」の中に「命」が取り込まれてしまうことなのである。いのちの地盤から離れ浮足立って宙に浮いてしまう。浮世の住人になってしまうのである。

 「心」によって「命」が支配されているのである。「命」が主君で、「心」が家来の関係なのに、家来に主君が使われる関係になってしまっているのである。

 心は意馬心猿と例えられるように、図のような心の世界を転々と動き回っている。
 また、「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな」という一休禅師の言葉もある。

 そんな心を落ち着かせ、雑念を払うのがマインドフルネスというものだろう。それは心で心を制御する坐禅である。それも一つの坐禅であるが、それは仏教以外の外道禅である。

 山下良道氏は、マイインドフルネスを表すキーワードとして、次のものを挙げている。

 瞑想、念、気づき、観自在、非思量、である。その解釈は彼独自の解釈で
道元禅とブレンドさせようとして捻じ曲げも甚だしい。


 しかし、道元禅師の命の坐禅はそれと完全に一線を画す。

 道元禅師の普勧坐禅儀には、「心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。」とある。
 平たく言えば、頭を空っぽにしろということである。

 それによって、心に捉えられた宙に浮いた命ともども「いのちの大地」まで落っこちる、それが身心脱落である。それを受け止めてくれる大地に坐りこむのである。
これが只管打坐の坐禅である。

 この文章は明確に念想観を否定しているのが知れる。念想観とはそういう観があるように思って曖昧に済ませてしまっていることが多いようだが、これは念、想、観と切って理解しなければならない。

 そうすると山下氏の主張して止まない念(念)、瞑想(想)、観自在(観)は否定されてしまうのである。

 念は覚え、想は想像、観は観察、それぞれは過去、未来、現在に対応していると読むべきでそうすればすっきりする。

 この念について、正法眼蔵八大人覚の5番目に「不忘念」というのが道元禅師もそれが大事だと言っている。氏は坐禅中も念を忘れるなという持論を展開しているが、勘違いも甚だしい。

 これは正念を忘れるなと言っているだけであり、日常において忘れてはならないことは一杯ある。願、戒、法等一杯、あって、忘れてはならないもののことである。

 また、同じ普勧坐禅儀に「不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底、如何(いかん)が思量せん。非思量(ひしりょう)。」あるが、氏はこの非思量がマインドフルネスだと言っている。つまり、thinkingを止めろという解釈である。

 只管打坐の坐禅は不思量の状態を狙いとするものである。ところが坐禅中にいろんな思いが湧いてくる。それを思量とするなら不思量の坐禅が中断されてしまう。思いの湧出が多くなれば坐禅が成り立たなくなる。

 しかし、不思量中の思いは短時間のうちに自然に消えてしまうもの、だから、それを思量と看做さないということ、それが非思量なのである。それによって、一炷の坐禅となるのである。

 内山老師の兄弟子に当たる横山祖道老師はこれを「非思の量」と言っている。非思が次々現れても不思量底はキープされるということである。

また、石頭希遷禅師は、「長空 白雲の飛ぶを礙へず」と言っている。
長空が不思量の世界、白雲が非思量である。白雲に首を突っ込めばそれが思量である。この言葉は坐禅の極意である。

 道元禅は、只管打坐の坐禅、命の坐禅であり、修証一如、畢竟帰処(終着点)、無所得、無分別智の実修である。

 それは、沢木興道老師のいう「何にもならぬ坐禅」であり、内山老師のいう「物足りぬままただ坐る、帰命の坐禅」である。

内山老師揮毫の安泰寺本堂の扁額

 山下氏はそれが物足りなかったのだろう。物足りようを求めてマインドフルネスに辿り着いた。それも一つの坐禅のあり方であり、その有用性についてはそれを認めざるを得ない。
 しかし、有用性とは有所得ということである。無所得の道元禅とは絶対にブレンドできないことを知るべきだ。

 無理やり、ブレンドしてアップデートして、「俺は道元より上だ」と言っているようで片腹痛い。(氏には「アップデートする仏教」という著書がある)

 最上のものに付け加えるものは何もない。余計なものを付け加えるのは蛇足であり、レベルダウンとなる。

 このような体たらくで氏は曹洞宗の僧侶と言えるのかどうか?
 お仲間もおられるようだし、くっついていく輩も出てくるだろうから曹洞宗の行く末も心配になってくる。

 テーラワーダの比丘ということだから、そっちに専心されるがいいのではと思いすらする。

 心は寝れば消える、命は死ねばお終い、いのちは不死、永遠である。

 いのちから命が生まれ、命から心も生じるのである。

 心をいじくっても命の問題は解決しない。

 「生命力は宇宙力 宇宙力が生命力」である。坐禅するしないに拘わらず知っておいてほしい。

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瞑想は迷想(道元禅の立場から)2

2021年01月02日 | 佛教

道元禅師の著書に以下のような言葉がある。坐禅にもいろいろあるということである。

『龍樹祖師いわく。坐禅はすなわち諸佛の法なり。しかも外道も亦坐禅あり。
しかりといえども外道は着味の過あり。邪見の刺あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず。二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず (永平広録 巻七)』

それについて、内山興正老師が解説されていて、以下は「自分と自己」という文章の一部引用である。

【つまり外道の人もーーたとえばインドのヨガの人なども坐禅するし、日本の生長の家の人でも、神想観といって坐禅みたいなことをやるわけです。「然りといえども、外道は着味(じゃくみ)の過あり、邪見の刺あり」と出ていますが、何か色合いがついている。味付けがしてあり、坐禅すると健康にいいとか、頭がよくなる、とかいう。インドの人たちは、坐禅して昇天の福を得ようとか、来世は天人に生まれ変わろうというのが殆どで「ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」といいます。

 それから又「二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」とあります。いま南方佛教の人たちは、坐禅してだんだん煩悩を細めていって、最後にはそれを全く無にするという。これはいわゆるの「自調の心」であり、最後には煩悩を断滅してニルバーナをえようというので、そういうつもりになっています。

 ところが「諸佛菩薩の坐禅」というのは、これに反して「坐禅はまっすぐにただ坐禅する」という一事に尽きます。坐禅するーーただそれだけで、何の「つもり」ももたない。これが本当の坐禅であり、これを「祇管打坐(しかんたざ)」といいます。

 ところがみんなそうじゃないでしょう。皆さんたち、どういうつもりで坐禅しているか知らないが、折角、坐禅するのだから、ちょっとはよくならなければ損だと思う。--これは人間のアタマの計算であって、つまり人間社会分の一の小さな人間の打算勘定です。今はそういう会社なんかも沢山あるじゃないですか。
このごろ坐禅による研修とか練成とかいうのが流行っていて、社員に坐禅させる。社員に坐禅させるなんて、いかにも時間の無駄なようだが、しかしそのあとで能率が上がるから、けっして損にはならないといいます。これはなるで鶏に卵を産ませるために、いい餌を食わせても損にはならないというのと、どこが違う。人間の計算はいつでもそういう打算をする。--これはほんとうの生命の実物としての坐禅になりません。

 いま道元禅師の坐禅は、どこまでも坐禅するという生命の実物をただすることです。坐禅するという現ナマの生命体験をいまここでやることです。われわれ坐禅中、頭に何も浮かばないのではありません。しかしもしこの場合、坐禅中に浮かんだ思いのどれかに首をつっこみ、その一事を追っているなら、これはもう小さな自分の考え事でしかなくなってしまっています。そうでなし。いまわれわれのする坐禅は、ただこの生命体験を生命体験のまま一切手放し。そうすると一切人間社会というのも自己の風景。またいろいろな思いが浮かんできても、一切手放しで、浮かぶは浮かぶにまかせ、消えるは消えるにまかせている。このときすべては自己の生命の風景でしかなくなっています。一切手放しで、自己の生命の風景を生命の風景として観ているーーそういうのを黙照禅という。黙ってただ照らしている坐禅だからです。】

そういう坐禅はいくらやっても何にもならない。
宇宙と一体であり完全であり完結している。もう足し前が要らないのである。
でも、そんな坐禅に物足りなさを感じるのは仕方がないところもあるが物足りぬままそれでも坐っている大事。

それを沢木興道老師は「坐禅しても何にもならぬ。その何にもならぬということが分からないと本当に何にもならぬ」と言われているが、山下氏は
その教えが耳に届かなかったということなのだろう。

さて、マインドフルネスは宗教色を持たないということだから、外道禅である。
南方仏教は二乗禅、山下氏はその二つをブレンドしてしまった。
それに仏、菩薩の禅をチャンポンしようというのだから、とんでもない話である。(外道、二乗は差別だという今日的な人権感覚で思われる人もいるだろうが、当時の言葉であるからそのまま使わせて貰った、容赦頂こう)

大乗禅は命の坐禅、無所得の坐禅である。思いの効用を説く有所得の坐禅と一緒にできるはずもない。

瞑想なんてものは寝たら消えてしまうものだ。命は寝ていてもちゃんと働いている。

安泰寺の本堂に「帰命」という言葉の扁額が掲げられている。内山老師の揮毫によるものである。毎日、何を見ていたのだと言いたい。

(続く)

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