十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

安泰寺への道

2014年06月23日 | 共生

安泰寺への道なんて見出しををつけると坐禅修行への案内のよに聞こえるかもしれないが、そうではない。

安泰寺はとんでもないど田舎も寺でだれでも簡単に行けるところではないのであるが、そこで無方さん、その家族、そして修行者が暮らしている。

このところ、ユーチューブを見る機会が増えてたまたまリンクを追っていたら安泰寺に着いてしまって、一番近い池ノ平口というバス停から寺まで学校帰りの子供さんを送り迎えするところが動画で出ていたので、その道がなつかしく思えて、紹介したくなった。

私が今の安泰寺に上山したのは、2回だけで1回は得度式の時昭和56年4月8日、この時は自分の車で小山さんという最初安泰寺へ誘ってくれた人と一緒だった。4月に入ったというのにところにより2mもの雪が残っていた。えらいところにあるものと強い印象を受けた。冬場、寺は4,5mもの雪に閉ざされているのだから、無理はない。
いつぞや、郵便物を郵便局へ受け取りに行く修行者が雪崩に巻き込まれて亡くなったり、前任の住職靖雄和尚がブルドーザで雪かき中川に落ちて死亡するなど、冬場はとんでもないところなのである。

もう1度は、内山老師の1周忌法要の時、平成11年、亡くなった3月は雪が残りそのため支障も考えられたので、5月に行った。大阪からバスで湯村温泉まで、そこから近所に住む知人に送ってもらった。1泊して翌日下山、バス停まで歩いて帰った。それが↓の道だ。

https://www.youtube.com/watch?v=41YPXtPi7TA

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行き先に我が家ありけり かたつむり

2014年03月12日 | 共生

昨日3月11日は東日本大震災の3周年、18000人を超える人が亡くなった戦後最大の大災害、地震発生時刻に黙祷を捧げた。

報道機関は特別、特集番組を組み、発生時から今日の状況まで各局報じていたが、各方面に復興が遅々として進んでいないこと、原発を始め問題山積の状況に心が痛い。

家をなくしあるいは放射能汚染のため帰宅がままならない避難住民が数多く、復帰をあきらめた人も多い。その人達は自分の家を無くした喪失感ととも孤独、孤立を感じておられるのではないか。

その人達には是非とも自己世界を持ってもらいたいと思う。自分の周りとの一体感があれば孤独、孤立感は和らげられると思う。

首都直下地震や南海トラフの地震等その発生確率が確実が上昇している昨今、たとえ足元が揺れ動いても自分自身の不動の立脚点を確保しておかなければならないと思うのである。

「行き先に我が家ありけり かたつむり」

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羽生選手やったね

2014年02月16日 | 共生

ソチ五輪でやっと金メダル、羽生選手やったね。

これだけはっきり日の丸を掲げてくれたのは初めて。嬉しいね。

写真は今日の産経新聞のネットビューから写したが、よく見ると吾輩の額が映っているのがご愛嬌。

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国旗を汚さないで

2014年02月12日 | 共生

白地に赤く
日の丸染めて
ああ美しい
日本の旗は

青空高く
日の丸揚げて
ああ美しい
日本の旗は

戦中に生まれて「日の丸行進曲」なんかをよく聞いて育ったせいか、国旗の日章旗には特別の思い入れがある。
スポーツの国際大会などで、国旗に寄せ書きなんかをしているのを見かけるとぶん殴ってやりたくなるのである。今回のオリンピックでもその風景が見られた。

国旗は国の象徴、戦中は日章旗を仰ぎ見て日本の国を思い命をかけ、多くが命を落としたのである。それをないがしろにするなんてという思いだが、遺品などに寄せ書きしたのが出てくるを目にすることがある。何たること、そんなことだから日本は負けたのだと思ってしまうのである。

若い読者諸兄にあっても、日の丸が焼かれたり、足蹴に泥だらけにされるのを見れば腹立たしさを感じられると思う。そんなことを自らの国民がしているのである。あれら人達は日本人の精神を失っている、あるいは知らないのであろう。

日の丸は日出る日本、つまり太陽を表していて、それはお日さま、お天道さま、天照大御神なのである。
そして、日本の精神、昔でいえば大和魂は三種の神器にて表される。
鏡は誠、玉は愛を、そして剣は勇気を表す。誠と愛と勇の3つが渾然一体となったものが大和魂なのである。
それを日の丸にはそれが、白地は誠、丸は愛、赤は勇でちゃんと3つの精神が一体的に表されていることを知っていなければならない。これは知(誠)、情(愛)、意(勇)が完全にバランス(大和)していることである。

まあ、だから、大いなる和の精神の日の丸を掲げて侵略戦争なんてあってはならないことであったのである。

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建国記念の日を思う

2014年02月10日 | 共生

このブログでは自己の世界を持つということをテーマにしているが、読者諸兄は自己の世界を既にお持ちだろうか。

そんなものは持っていないという人も実はちゃんと持っているのである。
1自分だけ
2自分と所有物
3自分と家族
4自分と属する集団、その縄張り、人脈、テリトリー等

どこかに生命線と呼ぶべきラインを引いていてそれの内側を自己世界としているものである。そこまでは自分と一体感を持ち自己同一性つまりアイデンティティーを有しているのである。

たとえば、長嶋茂雄は引退式の時「我が読売巨人軍は永久に不滅です」なんておかしな言葉を残したのは有名だが、長嶋にとっては巨人軍と一体であり、巨人軍が永久なら自分も永久というような心情があるのである。

前の大戦でも兵隊が国のために命をかけて戦ったのも国との一体感があったからである。祖国への思いに深いものがあった。

しかし、先日テレビを見ていたら自分の国を誇りに思うかとアンケートで主要国の中で日本は最低ラインで50%を切っていた、100%に最も近く最高値だったオーストラリアの半分という情けない数字。一体感があればどこか誇るべきところに気がつくはずだし、自分のことしか考えていないのだと思う。

で、とにかく広く自己の世界を認識しそれとの一体感を持つことが大切である。
自己の世界と言ってもいいし、自己の国と言ってもいい、是非それを持ってどんな世界を創造して行くかその中に生き甲斐も喜びも得られるはずである。

佛様は皆、自己の世界、国と持っている。阿弥陀佛は極楽浄土、薬師如来は瑠璃光浄土、毘盧舎那佛は蓮華蔵浄土、
釈迦如来は娑婆世界(寂光浄土)、観音菩薩は補陀落浄土といった具合である。
佛教の最終目的は成佛にある。その前提として自己世界を持つこと。これは誰でもできることなのである。

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コメントとトラックバックについて(お知らせ)

2014年02月07日 | 共生

このブログは元々私の独り言を書くということで出発しましたが、途中、いやがらせとしか思えない無用のコメントが舞い込むようになり、コメントは内容チェックの上公開するようにしてまいりました。

しかし、折角コメントをいただいていたのに見逃すことが続いたので、この度、即、公開という形に変更いたしました。

ついでに、トラックバックの制限も外しました。

なお、ご利用に当たっては当方並びに閲覧の方に迷惑にならないようにしていただきますようよろしくお願い致します。

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謹賀新年 人生いろいろ

2014年01月02日 | 共生

昨年はご愛読ありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

島倉千代子が亡くなりその後「人生いろいろ」の歌がよくきかれた。

で、「人生いろいろ」を3つに分類してみた。

1.現実派  死んだらお終いといういのち      無宗教

2.夢想派  死んでも生き続けるといういのち   信仰型宗教、神秘主義

3.真実派  死んでも死なないいのち        自己完結型宗教

勿論、ここで提唱するのは、3.真実派である。

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美しい思い出

2013年12月30日 | 共生

年賀状は前に紹介した文章でやっと25日に作成して、26日に投函した。元日配達を約束した郵政には1日遅れたが何とか間に合うのではないかと思う。

今年は何て書こうか、思いつかずやっとこさできたのがあれだが、あのテレビドラマの1シーンというのは私が見たというものではなく、ある本の中で非常に印象深いものとして記憶していたものなのである。

佛教を学び出して内山興正老師の本と合わせてよく読んだのが佛教学者 紀野一義さんの本なのである。内山老師の文章は知的で禅僧らしく透明な水墨画を見るような感じがしたが、紀野さんの文章はさすが日蓮宗の寺の生まれらしく法華経のように華やかな世界描写、つまり情的なものが感じられるように思う。

その紀野さんの「いのちの風光」といいう本の中に書かれていた一文なのである。
おばあさん役は東山千栄子だったが、そのシーンに非常に紀野さんは感銘を受けたとのことだったし、私にとっても紀野さんの本の中で一番印象に残していたものなのである。

紀野さんは、美しい思い出とはその底流には無私なる精神があるというようなことを書いていたように思う。支え支えられている関係がちゃんとあるから淋しくないのである。

その点楽しい思い出は自分の楽しさだけでしかないとしたら、「あの時は楽しかったのに今はみじめ」ということで寂しさを倍増しかねない。

さて、その紀野さんの訃報が今日の新聞で報じられていた。今回のことで紀野さんのことを思い出しもう随分高齢になられているとは思っていたが、91歳で亡くなったとのことだった。

まあ、こんなことも何かの因縁なんだろうね。

ということで、本文をもって今年の書き込みは終了とします。こんな駄文でよろしければ来年も見てやってください。

どうぞ、良いお年をお迎えください。  

一法 拝

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年賀状作り

2013年12月24日 | 共生

毎年、早めに年賀状を用意し24日ともなれば、郵便局へ差し出し済みなのだが、今年は作成できていない。

さっき、ネット上の素材集から絵柄を選んだところである。

そもそも、いつも内山老師に倣って人生詩なる詩もどきの文章を書き記しているが、この文章がまとまらなくて難儀したのである。文章力がなくて情けない思いをするのはいつものことだが・・・

でその文章だが、

 年寄りの宝
 
年寄りは思い出の中に生きている
思い出はいのちの風景なのだ
よき思い出はこころの宝物
美しい思い出が晩年を支えてくれる 
 
 あるテレビドラマの1シーン
一人住まいのおばあさんのところへ孫娘が訪ねて来る
 
 「おばあちゃん、こんなところに一人で住んでいて淋しくないの?」
「ううん、ちっとも淋しくないんだよ。美しい思い出をいっぱい作って来たからね」

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事故原因

2013年06月18日 | 共生

 一昨日、自転車でスーパーへ買物に行った帰り道の交差点で人だかりがしていたので、事故でもあったかと近づいたら、救急車とパトカーが停まりどうやら交通事故が発生。すぐ、通り過ぎたので内容は不明だが自転車が絡んでいることはまず間違いない。左の影は京阪電車の高架、それに添って自転車と歩行者専用となっている道路で、車は左手から右手への一方通行である。

電車に添い反対側にも道路があり、そちらが自動車の往来があって、左の方へガードをくぐったところにところに交差点がある。信号が青になると左手から主として自転車だがワーと写真交差点で前方、左右に散開する。反対に交差点方向に行く自転車もあるのでよく混雑する。徐行しない自転車もあるので、常に注意して走行しなければならないところである。

さて、私も事故に遭ったばかりだし、事故原因というものを考えてみたい。

事故があれば加害者と被害者が発生するのであるが、例えば私のケースのような相手が一方的に悪い場合、事故原因が加害者の違反行為とされてしまう。私の事故の場合は加害者の「前方注意義務違反」ということになってしまう。

ところが、被害者がそこにいなければ事故が起こらないのであるから、被害者も事故原因といえるわけである。事の善悪、過失の有無は関係なく事故に関与しているのである。

さて、加害者と被害者がある時、ある地点で遭遇するのであるが、なぜ、そこでそうなったのか。時間を遡って両者の軌跡を追ってみると面白いことが知れるであろう。例えば1時間前には両者は事故のことは予想だにしていない。ところが時間を追ってぶつかるようにぶつかるように動いて行っているのがわかるであろう。その1時間の間に出逢った全ての出来事が関与していることが分かるであろう。

また、その1時間は前からの続きであるから、以前のものも皆関与しているといえるのは当然である。例えば、ここのブログであるが覗いていただければカウンターに出る。読者諸兄とはそれだけの関係で大した影響はなさそうであるが、私がそれをチェックすると、意識の流れに影響が出る。100と99では思うところが全然違う。意識の流れに変化があれば当然行動にも変化、時間のズレが出るということになる。

そう考えると、あの事故に諸兄が関与しているということになるのである。

 

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ためしてガッテン(バナナ)

2013年03月20日 | 共生

毎週見るテレビ番組にNHKの「ためしてガッテン」がある。
大体、若い頃からハウツーものが好きで何にはどうしたらよいかなんてことをいつも考えていた。根が横着なので楽に済ませるようなことばかり考えて来たのである。今もそれは変わらない。
ただ、よい方法が本とかTVで知っても面倒くさくなるものは長続きしない。

でも、先週放送された「ためしてガッテン」のバナナに関するものは自分にとって非常に有用情報だと思うので書きとどめたい。

朝は軽くパン食でトースト、牛乳、ヨーグルト、バナナが定番である。
そのバナナの対する耳寄り情報は、バナナを50度近いお湯に5分間浸けるというもの。それで糖度が増し、黒くなるのが遅れ3倍は長持ちするようになるというもの。
早速試してみたら確かに甘みが増し美味しくなった。早めに食べてしまうので長期期間保存することはあまりないが長持ちするとなると安心である。

また、1日2日簡単に簡単に長持ちさせる方法として、房の繋がったまま保存せずに1本1本バラしておく方がよいようである。発生するエチレンガスが影響するので離しておくのよいのである。

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玉緒が行く●縁起のよい話●

2013年02月28日 | 共生

さんまのからくりTVと長寿番組があるが、もう15年前のことになるだろうか。その中に中村玉緒がレポーターとして各地に出かけ一般の人間ならとりえない常識から逸脱した言動をクイズにして浅田美代子ら回答者に当てさすという「玉緒が行く」とコーナーがあった。

また、当時我が家では家内が財布の中に溜まった1円玉をビンに入れて貯めていたことがあり、落ちていても拾われもしない価値の小さな1円玉にスポットを当て別の角度からその価値に考えてみる文章を作ってHPにアップしていたことがある。

近頃エントリーが途絶え勝ちでそれでも毎日多くの来訪の方もおられることでもあり、繋ぎに読んでいただけたらとアップすることにした。

玉男と玉緒の1円玉兄妹の漫才仕立てで書いている。 


●縁起のよい話●

 玉緒|兄さん。えらいこって。
 玉男|どないしたんや。慌てて。
 玉緒|ここの奥さんがビンのお金も一杯になったんで、あのケチ友銀行へ預けに
      いかはるそうでっせ。私らもいよいよ身売りされて行きますんやなー。
     兄さんともお別れかも知れまへんなー。うち、悲しいわ。ワーワー。
 玉男|あっちこっち渡り歩いて人間さまのお役に立つのが、われわれの使命とい
      うもんや。まあ、泣くな。
         [ガチャ、ガチャ、ジャラ、ジャラ]
 玉緒|兄さん。よー見たら私ら2枚だけ奇跡的に残ってますがな。
 玉男|ほんまや。まあ、よかった。
 玉緒|これも日ごろ信心してる観音様のお陰に違いないわ。手合わせとこ。ナ
      ム~~。
 玉男|知らんかったなー。いつから観音さんの信者になったんや。
 玉緒|へへー。観音さんは何でも願い事を聞いてくださるそうですよ。ありがたい仏
      さまですな。
 玉男|現金な奴やな。
 玉緒|はい、1円玉は現金でござりまっせ。へへへー。
 玉男|負けるわ。しかし、玉緒。何百枚の中から我々2枚だけ残ったのは、確率的
      には滅多にあることではないが、こんなことで驚いていたらあかん。
      世の人間たちが本気で驚かんならんことがあるんや。ちょっと話しは長く
      なるが遺言のつもりで聞いてくれ。
 玉緒|それはたいそうな。
 玉男|できるだけ分かりやすく話をするつもりや。まず、1升の米は何粒あるか
      分かるか。
 玉緒|数えたことあらへんから見当もつきまへん。何万もあるんでしょう。
 玉男|72842粒。旦那の師匠が大正時代に小学校で教わったらしい。実際に
      1勺だけ数えてみたら730粒あったらしい。とするとだいたい合ってる
      な。で、3億粒の米の量いうたら何立方になるかわかるか。
 玉緒|見当付きまへんな~。
 玉男|7.4立方メートルや。これを例えば4畳半の部屋に敷き詰めると高さ1m
     になるんや。その米粒一つ一つに尾っぽをつけておたまじゃくしのように
     動き回っていると想像してみ。その中からたった一つを選ぶ競走をすると
     したらどうなる。
 玉緒|3億分の一の確立でっか。可能性0に等しいやおまへんか。18頭立ての
     競馬当てるのもなかなかむずかしいのに。
 玉男|どういうことかというと人間の生殖活動を分かりやすく考えてみようとし
     てるわけや。大体自分はどうして生まれてきたのか。考えたことがない人
     が多すぎる。精子と卵子が結びつくぐらいのことは知ってるが、それ以上
     の頭は働かさずに、神様の思し召しであったり、仏の御計らいであったり、
     誰かさんの生れ変りですましているやないか。
 玉緒|コウノトリがつれてくるの違います?へへー。
 玉男|からこうたらあかん。さて、3億というのは1回に放出される精子に数や。
     ヨーイドンで一斉に飛び出して卵子めざして競泳や。真っ先かけてもあか
      んで、先駈けする奴は皆討死に、前の奴が切り開いた道を後ろの奴が進ん
     で行くんや。実力も必要やが展開にも運にも恵まれんと優勝は覚束ないわ
      けや。
 玉緒|確かに厳しい競争ですな~。皆さんそのものすごい競走を勝ち抜いてきや
     はったんですな。
 玉男|ねらってできるものではない。結果として最善のコースを最善のペースで
     泳ぎきったということや。その瞬間その瞬間に確実にその位置におらなけ
     ればならない。非常に微妙だから母親の体の動き一つで位置は変わってし
     まうやろ。母親の動きには母親の生きてきた体験の全てが関わっている。
     例えば前日Aさんに出会ったとしたら、以後それに影響された母親である
     わけで、Aさんに会わなければもうその子は生まれることはないわけや。
     隣の犬も関係してるし、台所を這い回っていたゴキブリも関係している。
     で、そのゴキブリは何故這い回っていたのか。それにも原因がちゃんとあ
     る。条件がある。その因果の連鎖のどこまでも広がっているし、どこで切
     れても今の母親はないわけで、その子がうまれることもなんやな。
 玉緒|えらいことですなー。兄さん。
 玉男|この世界は、微妙精緻にできているということやな。どこかで起こった振
     動は四方八方に伝わって、その影響によって新たな動きが出てくるという
     ことやな。特に、生殖活動の場合は特別微妙やからな。
     核の連鎖反応というものがあるが、連鎖反応は何も核だけやない。一切の
     ものが連鎖反応をおこしているんや。この自分のいのちも爆発してるわけ。
     いのちの連鎖反応と言うたらええやろ。この自分のいのちが次々と新しい
     いのちを生み出している。これが本当の意味での転生と言うもんやな。
 玉緒|分かったような気もするけど、もう一つ合点が。
 玉男|わからんかなー。まあ、自分の知っている人の子の誕生に自分が関わった
     ということが納得できたら分かるやろ。自分でよう考えてみるこっちゃ。
     この世界はこの自分が創り出したもんや。自分が直接造ったものではない
     し、意図したものでもないが、創り出したもんであることは間違いない。
     一切のものは自分のいのちの分身ともいえるわけや。逆にこの自分は別の
     いのちによって創られたものでもある。神様がポンといったものやない。
     まあ、話を敷衍すると宇宙が全時間をかけ、全力でもって創り出したもん
     やということや。
     縁起というものをそう読まんとあかん。
     前世の生れ変りとか、他生の縁とか、情けは何とか、死んでから極楽や地
     獄やなんて言うてるのは「縁起でもない話」や。
 玉緒|そうなると、兄さん。世界の一切のものに関わってるとなると、責任感じ
     ますな。
 玉男|そう。アフリカで飢餓で苦しんでいる子も我が分身やからな。これをどう
     受け止めるか、何もできん我が身を嘆かんならん。しかし、グルメや言う
     て飽食してるのと人間としてどうかということやな。
     まあ、一切のものに対する連帯保証人なることと考えたらいいのかな。
     責任を負わなくてもいい時もあるし、100%負わなければならんときも
     ある。どちらにしても、責任のあることを自覚している。そんな生き方や。
     けど、旦那のところへ借金取りに来てもあかんぞ。返済能力ないからな。
     まあ、しかし、一切のものを自分のいのちの内容とするということは、生
      き方としては素晴らしいことではないのかな。生きがいもある、やすらき
      もある、死を超えることもできるしな。
 玉緒|そしたら、兄さんの話を総合すると私らもここに居てるだけで存在意味は
      あるし、それなりの働きもしてるわけですな。また、元気が出てきました
      わ。
 玉男|そういうこと。

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幸田露伴の三福の教え

2013年02月12日 | 共生

今、近くの図書館から松原泰道(2009年に101歳で死去)さんの「百歳の禅語」という本を借りてきて読んでいる。

月の初めの「福は外」というタイトルでエントリーしたが、関連で本の中に幸田露伴の三福の教えというのがあったので、記録に留めたい。

1に「惜福(せきふく)」 福を惜しむ、恵まれたものを大切にするということ。無駄にしない。
2に「分福(ぶんぶく)」 福を他にも分けるということ。自分だけのものにせず、お裾分けをするということ。「福は外」もこの正に分福ということに当たる。
3に「植福(しょくふく)」 後の人のために福の種まきをしておく。このことに関し種田山頭火の句が紹介されていた。「いつ死ぬる木の実は蒔いておく」。他人事ではなく70歳の私としても何か木の実を蒔いておかねばという思いに駆られるところである。

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福は外

2013年02月01日 | 共生

明後日2月3日は節分、大寒の最後の日。

毎年、恒例の如く節分の豆撒きは「福は外」でやろうと提唱しているが、各家庭においてはどうされているのだろうか。

福というものは外からしみったれた所にやって来るものではない。福々しくしているところに湧いて出て来るものである。

「得はマヨイ、損はサトリ」(澤木興道)

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謹賀新年

2013年01月02日 | 共生

 

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