2,3日前から就寝時に背筋部に痛みが発生、寝返りする時に痛んで目が覚める。思い当たることはなかったが唯一石油の温風ヒーターの灯油を入れ替えた時タンクの重みでか?しかし、あれぐらいでどうかなればちょっと重いものは何も持てなくなるなあとか思っている。
湿布薬はあるのだが、一人では手が回らず貼れそうもない。ふとんの上に膏薬をおいて見当をつけて寝る方法でとも考えたが、辛抱できる程度だったので様子を見てみたら大分軽快してきた。自慢に1つ追加。
おとといのNHKTV「ためしてガッテン」では、耳鳴りを取り上げていたがそういえば自分も耳鳴りがしている。特に寝る前なんかに静かにしていると、シーンとするような音がする。音無しの状態がシーーンと表現されるのは耳鳴りもことかも知れないと思える。
耳鳴りの原因は聴力の衰えらしい。聴力は周波数帯によってばらつきがあり、高齢になるほど高い周波数が聞こえにくくなる。その耳の能力が落ちた所を脳の視床が感度をあげようとし、脳内で飛び交ういろんな信号を拾ってきてそれが音と認識されることが耳鳴りだというのだ。
耳鳴りが気になって寝られない時は、簡易にはTV,ラジオをつけっぱしにして何か音が聞こえる状態にすればよいということだった。ひどい場合は周波数ごとの音の可聴状態を測定してそれに合わせた補聴器(10万円以上する)をつければよいとのことだった。
で今回、2病追加で69種。歳の数だけあるという感じ。
耳鳴りなんて有り難くないことだが、内山興正老師にこんな言葉がある、「教わった大事な言葉は常に耳鳴りさせておかねばならない」
言葉は音声だから目よりも耳からの方が印象深いことが多い、大事な教えならその時の声もちゃんと記憶に残っているものである。
<頭、顔部>
脱毛症、白髮、健忘症、脳貧血、黒子
<眼部>
近視、乱視、老眼、白内障、ドライアイ、網膜穿孔、網膜変性症、閃輝暗点、濾胞性結膜炎、飛蚊症、結膜炎、緑内障
<耳部>
中耳炎、耳鳴り
<呼吸器系>
感冒、インフルエンザ、蓄膿症、鼻炎、咽頭扁桃炎、気管支炎、胸膜炎
<口腔、歯科系>
虫歯、歯周病、口内炎、口唇ヘルペス、歯欠損、顎骨脱臼
<消化器系>
逆流性食道炎、胃炎、胃ポリープ、食中毒、十二指腸虫症、腸炎、大腸ポリープ、痔疾、回虫、肝臓病、胆石、
<循環器系>
高血圧、冷え性、腹部大動脈石灰化、高ガンマグロブリン血症、足動脈狭窄、
<泌尿器系>
慢性腎臓炎、腎臓結石、前立腺肥大症
<骨格>
橈骨骨折、肋骨亀裂骨折2回、腰椎椎間板ヘルニア、踵骨亀裂骨折、顎脱臼、手足の脱臼、各所捻挫、脊柱管狭窄症
<皮膚>
擦り傷、切り傷、虫さされ、水虫、皮膚炎、両母趾巻き爪、日焼け炎症
<筋肉>
五十肩、こむら返り、背筋痛
ブックマークに2つのサイトを登記しました。
「こころの時代へようこそ」
NHKEテレ放送「こころの時代」の内容全体を筆記記録し写真もところどころピックアップしてある。第1回から記録してあり労作。さきに案内した村上光照和尚の話もちゃんと掲載されていたので見漏らした人はご覧あれ。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm
「ねずさんのひとりごと」
日本歴史におけるキラ星のごとく日本が誇るべきエピソードが満載。我々日本人としてのアイデンティティ確立のため必読したい記事。
前回のエントリーで書いた一部を一度再掲する。
神道 神=人=自然 共生関係
佛教 佛=人=自然 一体関係
この関係性を端的に表しているのが、童謡「夕焼け小焼け」である。
1 夕やけ小やけで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょ
2 子供がかえった あとからは
まあるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星
いつぞや、近所のお寺さん連合の主催する講演会で宗教学者の山折哲雄氏の話を聞いたことがある。ほとんどは忘却の彼方だが、一つだけ覚えていることがある。
山折氏が韓国の学者に今日子どもたちの情操教育が疎かになっていることを嘆いた時、その韓国の学者はそんなことはない。日本では昔ほどではないが今もちゃんと立派に情操教育がされているという。それが羨ましいというのだ。
「夕焼け小焼け」の素晴らしいというのである。お寺の鐘がなり、つまり佛様のちゃんとおられ、そろそろ帰ろうねと促してくださる。そして帰るべき家がちゃんとあって夕飯の支度ができている。友達と仲良く帰る、からすや小鳥も一緒、共に生きていて別け隔てがない。
月も星にも空にもちゃんと見守られている。なんという素晴らしい世界に生きているのだ。それが日常だというのです。
その話を聞いて山折氏はなるほどと同感の意を表明したそうである。
まあ、阿弥陀経に描写されたきんきらした極楽浄土なんかが素晴らしいものと思いがちだが、あればお経の作者が想像で作り上げた作りものに過ぎず、こういう世界こそ本当の浄土というべきであろう。
各種宗教の神佛と人間と自然の関係性を表にしてみた。日本教は山本七平氏のいうところの宗教観で日本人のほとんどが日本教の信者であり、どんな宗教もそれにアレンジされてしまうというものである。
支配関係にある宗教は日本人には合いません。キリスト教徒がいつまで経っても1%とと言われるのがそれです。
神道 | 神=人=自然 | 共生関係 |
佛教 | 佛=人=自然 | 一体関係 |
キリスト教 | 神>人>自然 | 支配関係 |
イスラム教 | 神>人>自然 | 支配関係 |
儒教 | 天>人>自然 | 支配関係 |
新宗教 | 教祖>人>自然 | 支配関係 |
無宗教 | 人>自然 | 支配関係 |
日本教 | (和)=人=自然 |
共生関係 |
以下、ウィキペデイア:日本教の転記
日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。
山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。
奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。
建国記念の日
今日は建国記念の日、朝から日の丸の旗を玄関に掲げました。今年は紀元2675年、西暦とは660年の差がありますね。神武天皇即位の日ということで神代の話だからいい加減なところですが、国がある以上建国もあったのでしょう。素直な気持ちで祝いたいと思います。
さて、最初から脱線ですが、神武で思い出したことがあります。昭和46,7年のことだと記憶しますが、同じ職場の先輩が競馬ファンで大穴狙い、ある時、当時ジンムという名の馬がいて当たれば万馬券、それを10枚買っていた。「そんなの当たりまっかいな」と馬鹿にしていたら、「当たったらフグ食わしたる」なんて話に発展、ところがそれが何と大当たり。「神武以来の景気や」と京橋でてっちりを御馳走になりました。初めて食べたフグは美味かったという話です。
※昭和29年3月から32年6月までの高度成長期の好景気を国始まって以来の好景気ということで神武景気と言いなぞられています。
話変わって、ここから自己の国を作ろうという話をさせていただきます。
随処に主となれば立つところ皆真なり(臨済録)
今、ここにおいて自己を主人公として確立するならば自己の周りの一切は自己のものとなる。
「我が物と思えば軽し笠の雪」
「三界は我が有するところ その中の衆生皆吾が子」(法華経譬喩品第三)
何もかも愛おしくなる、内山老師のいうところの「出逢うところ我が生命」となるわけです。
自己世界を持ち、つまり自己の国を持つことですが、そこの主として振る舞うことなのです。
誇大妄想でもいい、国を持ち、それに名前を付けることです。
物でも買えば自分の所有物だということで名前を書くでしょう。それによって所有が明確になるのです。
日本人はロボット、玩具でも名前をつけます。それでより親近感を得るのです。
先週土曜日に淀川の土手をサイクリングして休憩場所で一息入れていたらベンチに猫がいて、おばさんが「ミーちゃん」と言いながら頭を撫でているのので、「その猫、何歳ですか」と聞いたらおばさんが「知らんの、野良猫だから」と返事。どこからともやってきて日向ぼっこしていることが多いらしい。その猫におばさんは「ミーちゃん」と名付けて勝手に呼んでいるだけ。
猫は知らん顔だが、おばさんにはとても可愛く思えるようです。
しかし、藤原道長の「この世をば」わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」とこの世で自分の思うようにならないことは一つもないなんて考えたら大きな間違いである。どうせ最後は死にたくないのに死ななければならない。天から地への落差は大きい、その衝撃は普通の人間よりはるかに大きいに違いないのです。
イスラム国なんていうケッタイなものが現れたが、あれはテロリストによる悪の帝国、あんなものを作っては良くないのは明白です。
以前にも建国の勧めをしましたが、改めてお勧めします。いい名前を考えてください。名は体を表します。
イスラム国人質事件で日本中が気を揉んでやきもきしている。
宗教がらみの事件なので知らん顔でやり過ごすのもどうかと思いコメントしてみる。
人質の立場で考えてみる。もう終った、死ぬしかないと考えるべきだろう。何とか助かりたいなんていうのは甘い考えだ。
もしものことがあれば、どれだけ迷惑を懸けるか考えたのだろうか。
助けられてもどの面下げて日本に帰れるというのか、もう、全ては終ってしまったのである。昔なら切腹だ。
命をいうのは単にボデイーだけのことをいうのではない、人としては使命こそが命なのだ。それを誤って使いマイナスにしてしまっては取り返しがつかないのだ。
さて、我々の立場で考えてもどうしようもない。相手のいうように身代金を渡したら、それが資金源となり味をしめて新たな事件の要因となることは目に見えている。人の命は地球より重いなんていってダッカ事件では超法規措置で連合赤軍を釈放、活動資金まで提供したが、結果テルアビブ空港乱射事件を起こすに至っている。
でも、ダッカの時は人質が一般の乗客でまだ何とかしたいいう気持ちは誰にでもあったが、今回は勝手に危険を承知で出かけた奴、覚悟できてるんだろと言いたい。
もう今の2人の命か、誰とも知れないこれから先の10人の命か、見捨てるしかない。見捨てることが日本人の命を守るのである。向こうにしてみたら日本人は金にならないことを知るからである。
冷酷なようなだがそう考える。おい、あんた、佛教徒かといわれそうだが・・・。
明けましておめでとうございます。
大荒れの天気で新年が明けました。朝から風が強く冷たくて、しかし、そのせいか空気が澄んで太陽が輝やきが素晴らしかった。思わず手を合わせ、しばらく間世界の平穏を祈った。
日の丸の旗を出したら、強い風で旗が真横に全開、これも素晴らしい、これには日本の弥栄を祈った。
午後には近所の神社に出かけて家族の1年の無事を祈って吾輩の正月行事は終了。
3時頃には雪が降り出し、屋根や木の上に数センチの積雪、生まれてからこの方、元旦に雪が積もったのは初めて。
今年の世界はどうなるのか、いろんな面で大荒れの場面が多くなるのではと心配もあるが、それもまた人生、それはそれで内山老師の言葉の「出逢うところわが生命」と受け入れるしか仕方がない。
今年もどうぞよろしくお願いします。
皆様も自己世界に素晴らしい創造がありますようご活躍をお祈りします。
昨日実施された総選挙は事前の大方の予測通り、与党の勢力には変化なく、野党の出入りに終ってしまった。
吾輩は70過ぎたら世間的には隠居の身、若い人に任すという考えだから、棄権した。
さて、その若い人にぜひ読んでほしい本が出版されていたので、ご紹介します。
和田重正著 「葦かびの萌えいずるごとく」(地湧社:¥1500+税)
和田さんは前の記事「理想と現実」のところで紹介した先生です。
葦かびとは、耳慣れない言葉ですが、この本には次のように説明されています。
「あしかび」とは葦牙と書き、「葦」の頴(かび、穂先のこと)、あの勢い良く伸び上がろうとする葦の新芽のことで、古事記のはじめのところに「国稚く、浮脂の如くして、クラゲなす、ただよへる時に、葦牙の如、萌あがるものに因りて成りませる神の御名は、ウマシ・アシカビ・ヒコジの神・・・」というのがあります。本書の題名はそこからとったもので「あしかび」を生成化育の力の象徴とみているわけです。
「葦かび」という機関誌が塾で発行されていましたが、その中から選出し本にされたものです。
「葦かびの萌えいずるごとく」
http://www.jiyusha.co.jp/books/229-5.html
「生きることを考える本」(精選あしかび)
注:「葦かびの萌えいずるごとく」とダブっているものがあります。
http://www.jiyusha.co.jp/mokrok/books/010-9.html
「もう一つの人間観」
「葦かびの萌えいずるごとく」に共感されたなら、お読みなることをお勧めします。
http://www.jiyusha.co.jp/mokrok/books/019-2.html
数日前の記事に理想と現実について、ある人の言葉を紹介した。
ある人とは、小田原ではじめ塾という学習塾を経営していた和田重正さんである。和田さんの学習塾は小学高学年から中学生に対して単に学校の学科を教えるのではなく、人間の生き方についてもいろいろ指導されてきた先生である。著書も多く、また、NHKの教育テレビにも何回か出ておられる。
私にとって人生の師といえば何と言っても内山興正老師だが、その次にいろいろ学ぶところの多かった先生である。
さて、
理想に即して理想に生きる
理想に即して現実を生きる
現実に即して理想を生きる
現実に即して現実を生きる
と列挙したが、実は順番をはっきり覚えていないのである。和田さんの説明を何とか思い出してみると
「理想に即して理想を生きる」 現実を無視し理想にのみつっ走る生き方は現実を破壊し生活破綻を起こしかねない。
「理想に即して現実を生きる」 頭ではいろいろ考えるが、結局現実を生きるわけで現状維持しかない。理想は単なる夢となり勝ちである。
「現実に即して理想を生きる」 理想を着実に実現するにはこの生き方が最も相応しい。
「現実に即して現実を生きる」 これは理想とは関係のない生き方である。
人権デーに因み2009年のブログで次のように書いたことがある。
<引用開始>
今日12月10日は世界人権デー、1948年国連で人権宣言が採択されたのを記念して制定されたものである。
人権というものは果たしてあるものだろうか。そもそも「権」という字は「仮」のものという意味で、人が約束の上で認め合ったものに過ぎない。権利、権力、人権等皆そうである。
人権の最も重要なものはやはり生存権であろうが、「俺には生きる権利がある」と言ってもそれを認めてくれる人がいなければないのと同じである。山中で出会った熊には通じない、目の前に殺しに来た無法者にも通じない。北朝鮮のような軍事独裁国家では通じない。我が日本国には死刑制度があって国家によって処刑されることもある。
人権は歴史的過程の中で権力者から獲得してきたものだが、それぞれの権力によって認める範囲が違っている。日本で認められることが人権後進国の中国では認められない。
日本でも憲法に基本的人権の定めがあるが、それがきちんと守られているかといえばそうでもない。
所詮は約束事の地盤の上の話であることをよく承知しておかねばならない。約束というものは守られるとは限らない、破られることも多いということである。アテにできる範囲しかアテにならないのである。そんな時どうするか。腹を決めておかなければならない。宗教が必要な時はそういう時である。
<引用終わり>
人権というものは約束事の地盤での話で、認められないところではないのも同じだと言ったが、国家や差別者は何をしてもいいのかというと勿論そういうことではない。人を隷属状態に置く権利も勿論存在しないのだ。
権利云々なんて荒立ったことをいわなくてもそれぞれの人格を尊重されるにしくはない。
今日は彼岸の入り。「暑さ寒さも彼岸まで」なんていうが近年は暑さが残っていることが多いが、今日は肌寒さを感じて、長袖のシャツを着ることに。
台風16号が昨日の進路予想では日本を狙ったような図であったが、さっき、台風情報を確認したら進路が大分西にずれて支那大陸の方へ行きそうでほっとしたところである。
彼岸については、以前にも書いたが自分としてはどうもしっくりこないのである。
ウィキペディアの説明をみてみると、次のように書かれている。
彼岸は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う佛事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ。俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。(引用終)
この波羅蜜(パラミータ)が完成とか到彼岸とかいうもので、到彼岸するための布施とか、持戒とかいう6つの徳目をいうのである。
波羅蜜と到彼岸という言葉は大蔵経のデータベースで引いてみると、それぞれ94812語、1560語で、到彼岸という使われ方は圧倒的に少ない。
彼岸なんてものはどこにあるのか。まさかお寺が彼岸というわけもない。到彼岸なんておかしいと書いたが、しかし、よく称える四弘誓願に「衆生無辺誓願度」というのがあって、この度というのが此岸から彼岸へ渡すという意味なので後から気がついてどう受け止めてよいか困ってしまった。しっくりこないが唱え言だからまあいいかで済ましている。
どこかいいところへ行くことではなく、今いるここをいいところにしなくてどこにそんな世界があるというのか、ということである。彼岸なんていうのは幻想、ファンタジーであるということを心得るべきだろう。
しかし、まあ、ファンタジーがなくてはという人はそれもよいであろう。自分の心の中だけなら・・・。
さて、上段で支那大陸と書いたが、中国というのは中国が戦後世界の中心である国と呼ばせようとした国名で、日本は戦前支那と呼んでいた。支那は昔からの国名でお経の中にも支那国と書かれ大蔵経には334語出てくる。
支那を西洋ではチャイナであり、英語では自らをチャイナと名乗っているのである。
日本は日本だが、英語圏からはジャパンと呼ばれて、アメリカは米国と呼ぶし、フランスは仏国、初めて聞いた人が仏の国があるのかと尋ねたという笑い話もある。何と呼ぶかは勝手みたいなものである。漢字だからそれにならえというのは通らない。気に入らないというなら、カタカナでチャイナと書くまでである。
とにかく、支那人が自分らの国が世界の中心というのは気に入らない。世界の中心はこの自分なのだから。
慰安婦問題に関し韓国のプロパガンダにより国連の勧告、慰安婦像の設置等日本に対する国際的圧力が加えられているが、元々は事実誤認に基づくものであることを承知している我々日本人としては真に腹立たしく忸怩たる思いを抱いているところである。
確かに民間の慰安所の管理に関し軍が便宜を図るという意味で関与があったことは認めざるを得ないし、また、一部において慰安婦に対し人権侵害があったことは想像に難くない。
政府はそれを認め、謝罪もし、元慰安婦に対し慰労金を支払う枠組みを作るなど措置も講じて来ている。
しかるに、朝日新聞のねつ造記事を発端に誤った認識が世界中に広まってしまった。
勿論、強制連行はなかったというような正しいの事実関係を発信していくことが求められるが、それだけでいいのだろうかという疑問を持つ。
慰安婦像あれは韓国のプロパガンダだが、あれは日本人に対する人種差別に当たると考える。明らかに日本政府に対するものではない。日本人に対するものである。70年も前の誤解された事実でもって日本人の名誉を傷つけ、子どものいじめ等実際生活上の支障も生じているのである。
正に日本人の人権が侵される人種差別であり、今正にそれが拡散するし続けられている。国連はこれを放置していいのだろうか。
また、国連勧告では「性奴隷」と呼んだ。これぞ正に人権侵害だ。決して立派な職業とは言えないが、身体を張って収入を得ていたのであって決して奴隷などというものではない。奴隷に貶めているのは誰か、国連勧告ではないのか。
男の私がいうのもおかしいが、もし、慰安婦ならいかにつらい状況に置かれてたとしても断じて「性奴隷」と呼ばれたくない。
元慰安婦の人に聞かれたらよい。「あなたは奴隷だったのですか」と。まともな人権感覚を持った人なら答えは「ノー」となるはずである。
かの国連勧告は事実誤認に基づく日本人、慰安婦に対する人権侵害でそれを全世界に拡散するものでありこれを止めるべく国連に逆提訴すべきと考える。
ご案内したペリリューの戦いをご覧になりましたか。
何故あそこまで命を捨ててまで戦ったか。
そのもののために命を投げ出してもいいという、自分の命以上の価値を持っていたということだと思う。
かくすれなくなるものと知りながらやむにやまれぬ日本魂(吉田松陰)
私もここで自己生命が一番大事だと言ってきたが、そうするとそれ以外のもののために命を投げ出すことはないではないかという疑問が出てくることになる。
しかし、あらゆるものとぶっ続きの生命を生きていて、内山老師のいう「出逢うところ我が生命」なのだから、自己生命が自己生命として完結することになのである。
法隆寺の国宝、玉虫厨子に描かれた絵に「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というのがある。釈迦の本生譚という前世物語に出ている話だが、釈迦の前世である薩埵王子が修行の旅の途中、山の中で雌の虎に出くわす。虎は弱って横たわっていて周りに7匹の仔の虎がいて乳房に吸い付いているが乳は出ない。放っておけば仔も死んでしまうだろう。そこで薩埵王子は自分の身を虎に供養しようとするが、かぶりつく元気もない。そこで崖から身を投げて血を出して母虎に気力を出させて我が身を食べさせたという話である。
でも、相手が現代人には現実感がない話だが、先の東北大震災の時には見ず知らずの人を救おうとして亡くなった人が幾人もおられたようである。
ところで他人のために命を落とすのを犠牲とよくいわれるが、犠牲とは元々生贄のことで己と他人と分別した上で己を捨て他を生かす行為である。しかるに佛教では自他の区別がない、他を見ること自の如しだから犠牲といわない。他を生かす中に自己が最も尊いところを目指す生き方のである。
さて、ペリリュー島の戦いは、まさに「捨身飼虎」だったのだ、それで虎の仔はちゃんと育ったんだろうか。トラ猫ばかりが育ったような・・・
サイパン、テニアン、グアムが米軍の手に落ちた戦争末期の昭和19年9月から11月までのペリリュー島の戦いについて、13日、15日にTV放映があるので周知したい。
13日 10:00~ NHK 「狂気の戦場 ペリリュー”忘れられた島”の記録」 今年、アメリカで激戦を記録した100本のフイルムが見つかった。
15日 21:00~ フジTV系 「命ある限り戦え、そして生き抜くんだ」 守備隊長 中川州男大佐をモデルとし戦争・平和・愛・絆とは・・・。上川隆也主演
同時刻に日本テレビ系列で渡辺謙の「硫黄島からの手紙」がある。
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」