私が願いとしているところはどなたにも自己の世界を持ち、それを大事にしてもらいたいということである。最高の理想世界は佛としての浄土ということになるが、そこまでいかなくてもまあまあそこそこの世界を持ってもらえればそれでもよいと思っている。
自分の造った壊れっこない家に自分が住んでいるのだから、これほど気楽で安心なことはないのです。
何回も紹介したと思うが「行き先に我が家ありけり かたつむり」である。
さて、その世界であるが佛教では十通りあって、十界という。
ランクの低いのから順に、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、佛。このランキングは根性のランキングで根性に応じて世界が展開する。たとえば、三悪趣(貪瞋癡)で貪は餓鬼、瞋は修羅、癡は畜生、それらの極め付きが地獄ということになる。天上は有頂天という言葉があるようにいい気になっているということで、天人五衰といっていずれそれは衰微することになっている。金持が貧乏するのは貧乏人が貧乏のままよりよっぽど辛いことになる。
声聞は佛のそばで佛の教えを受けた者、縁覚は独覚ともいい自分で悟りを得たもの。そして、佛に近い菩薩、最高位は佛ということになる。
人間は我々のことと考えればいいが、上へも下へも行く可能性を持っているということである。
地獄へ堕ちるなんてよくいうが、そんなところが決まってあるわけではない。自分自身がそんな世界を造っているのだというのは毎度いうとおりである。
それで自分はどの境涯かということになるのであるが、そう簡単に十界に分類できるものではない。それぞれを併せ持っているというのが互具なのである。
平素は優しい人だが怒りだすと恐いとか、まさかあの人がという人が殺人したり、物欲は少ないが色欲が強いとか、鬼の目にも涙なんてこともある。人間とは欲望の束といった人がいたが、その配合加減がその人の人となりであり、その人となりに応じた世界がその人に展開してくるということである。
それともう一つはそういう性格を蔵していたとしても、それを思考や行動に表すか表さないかで世界が違ってくるということである。たとえば、風俗へ遊びに行くのは畜生界の展開だし、その身で坐禅するなら佛界の現成ということになるのである。