十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

お盆考ー敬遠

2019年08月13日 | 佛教

今、お盆で墓参りに行かれる人も多いと思う。今回はお盆行事のけったいさを書いてみたい。

ところで、甲子園では高校野球の真最中でもある。
野球には敬遠というものがある。過去には高校野球で星陵高校(石川)の4番打者松井秀喜に対して明徳義塾(高知)が5打席連続で敬遠するという作戦をとって物議を醸したことがあるのを思い出した。

日本では先祖を祀る心情が強いが、やっていることは敬遠ではないかと思えてくる。

盆に1回、ご先祖が帰ってきてまた霊界に戻っていく。これだと年に一回切りのことになってしまう。
盆に墓参りもおかしい、家に戻ってきているのに、何故墓へ行くのか。

ご先祖はどこにおられるのか、位牌に魂(性根)を入れる、お墓に魂入れをする、はたまた、お浄土へ行かれているのか、それとも六道を輪廻されているのか。

何も定まらない混沌感情のまま、風習としての行事をやっている。

ご先祖を墓や仏壇に棚上げし、拝んでいる、正に敬遠である。

では、先祖はどこにおられるのか。

古代ギリシャの哲学者 キケロはこう言っている。
「死者の命は生ける者の記憶に留まる」
本師内山興正老師の言葉にも「死者の霊魂とは生き残った者の間にただよう亡き人の残映である」とある。

ご先祖は心の中のイメージとしてある存在なのだということ。

また、身体は先祖の命がDNAに込められて、それが自分の中で働いている。

つまり、自分の中で先祖は生き続けているのである。

ところが、死んだ人をバラバラにして敬遠し、たまに思い出し、拝んでいる。それも自分でやらずに他人にお経を読んでもらう、おかしな習慣がつけられたものだと思う。 

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