十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

俺のとは違うな~

2021年02月02日 | 佛教

 テレビはよく観る方で、刑事もののドラマが好きである。「相棒」は初回から観ている。

 10年ほど前には内野聖陽主演の「臨場」もずっと観ていた。鑑識の主任検死官である倉石が毎回口癖のようにいう言葉が「俺のとは違うな~」。周囲の人間とまるで見解が違うのである。

 私も「俺のとは違うな~」と思うことが結構多い。

 最近、道元禅のやり方について、瞑想やマインドフルネスとの違いを指摘してきたが、そんな中で安泰寺の前住職 ネルケ無方師の指導に関しても、疑問点がありそれを指摘しておきたい。

 というのは、2012年に「ただ坐る」という彼の著書が出版され、私も当ブログで紹介もしているからである。

 その中に書かれている、P166「坐禅中は、五感はいつもより活発に働かせなければなりません」というところである。

 普勧坐禅儀には「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」と書かれている。五感を働かせるということは念、想、観の観に当たる。彼も念想観と一つの言葉として読んでしまっているようである。念想に関する観ということで、それなら完全に的外れである。

 沢木興道老師はこの部分のところでないが、念想観察という言葉を残しておられる。これでは念想の観察と言うことではないのである。

 五感を働かせることの非は次の言葉で明確になるのではないかと思う。

 ・世間虚仮 唯仏是真 (聖徳太子)

 ・生死は名字のみあって実なし。世界の法の中には生死あれども ,実相の法の中には生死あることなし(大智度論)

 ・如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出、有ることなし。亦在世及び滅度の者無し。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。(法華経 方便品 仏之知見)

 世間、世界、三界とはそれぞれ我々のこれが世界と思っているもののことである。

 それらは真実にあらず虚仮だというのである。

 では仏のような見方とはどんな見方だというと生まれて間のない赤ちゃんの見ているようなもの。言葉で分別しないということだと思う。

 「坐禅中は、五感はいつもより活発に働かせなければなりません」これでは虚仮の世界に取り囲まれていることになる。坐禅中意識脳を働かしては駄目だと思う。

安泰寺本堂(帰命の扁額)

コメント
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