いつも俳句の応募をしている退職者の会に、今回、寄稿文の出そうと作文してみた。それで担当の人に聞いてみると、800字程度で書いてくれと言われた。
字数が2000字を超えていたので、残念ながら断念せざるを得ない。
折角、書いたのでそれを今日の記事にした。
勿論、私は死後の世界なんて信じてはいない。一応、習俗として行われている仏式の葬式、法事に則って書いてみたものである。
「旅支度」
「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」、一休禅師の狂雲集にある言葉である。
近頃ではこの冥土の旅の旅支度は終活と言い習わされている。
ところがこの終活は、あとに残される者への配慮に終始している感があって、肝心な自身の死に対する心構えというか、覚悟というものの重要性が案外語られていないようである。
さて、亡くなれば仏式で葬式をされることが多いから、これからは仏教に基づいた話を述べさせていただく。
死んだら葬式をして僧侶に亡者はお浄土への往生、成仏へと引導されるように思われている方が多いがそうではない。
凡夫として死んだ者は、誰もが六道輪廻である。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道、そのどれかに生まれ変わるというのである。
それが証拠に死後回忌ごとに追善供養というものが行われる。これは死者の善行点が足りないと良いところへ行けないので、子孫が仏を供養するという善行を行い、その功徳の一部を亡者に振向けるのである。これを回向という。それで善行点がアップされればステージを上げてもらえることになる。
しかし、いくら善行点を上げても生天(天に生まれること)止まりで成仏はできない。いつ生天できるとも分からないから、いつまでも追善供養をしなければならないのである。一応、33回忌で弔い上げということになってはいるが・・・。
死後、法名ないし戒名をつけることで成仏だというのなら、追善はいらないし、追善が必要なら六道に留まっている理屈になるのである。
成仏したいなら生きているうちに成仏しなければならない。
そこで成仏だが仏になりきってしまう話なら、所詮無理な話だが、仏というのは「仏行を成す時仏と成る」のであって、成り切ってしまうことではないのである。
仏の時もあれば凡夫の時もある、どれだけ仏行のなし得るかである。
そして、死ぬ時には仏として死ぬのである。
成仏の法は宗派によって説くところが違うので、各自確認されればいいと思う。
ちなみに禅門では、次のような言葉がある。
「一寸坐れば、一寸の仏」(一寸とは一寸の線香が燃え尽きる時間)