法華経は真理が説かれているのか、説かれているとしたらそれは何か?という質問が知恵袋にあったので、次のとおり回答した。
これが真理だなんていう真理なんて説かれていないのです。
言葉で説かれてしまっては、もうそれは真理とは言えなくなってしまいます。
方便品第二でなぜ釈尊がこの世に出て来られたのか、出世の本懐といいますが、それは衆生をして佛之知見つまり佛様の見方に開示悟入せしめんためだと書かれています。
佛となって佛の見方で世の中を見なければ真理なんて分からないということなんですよ。
さて、その佛之知見は如来寿量品第十六に書かれています。
如来は如実に 三界の相を知見するに生死の若しは退 若しは出有ることなし 。亦在世滅度の者なし。 実に非ず虚に非ず如に非ず異に非ず三界の三界を見るが如くならず」(佛が実物どおりにこの世の在り方を見てみると、生死という出入りはない。世の中に生存ということもなければ死ぬということもない。生と死ははっきりと決まってあるものではない。生死は実在として在るわけでもないし、では全くないのでもない。空虚とも虚無ともいえない。では生と死は一如平等でベッタリ同じかというと、そうではない。では全く差異格別のものかというと、それも当たらない。とにかく三界というこの世の中の人がこの世の中を見ているような在り方のようなものではない。佛の眼で見ると我々の見ている世界のようなものではない)ということなのです。
何のこっちゃというしかないでしょう。
法華経は修行せよ。修行すれば成佛できる。成佛すれば佛様の見方ができる、としか言ってないのですよ。
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