仏教における性悪説と性善説と言うと、何事かと思われるかも知れないが、性悪説とは輪廻説のこと、性善説とは如来蔵説のことである。
輪廻説は生まれ変わり思想、前世の悪業を背負って現世に生まれて来る、無明、煩悩、執着による苦しみで汚れてしまった状態で生まれて来る。
一方、如来蔵説は大乗仏教の中に生まれて来た考えで、如来蔵とは如来の蔵、蔵は胎児のこと、つまり、仏の子として生まれて来ることである。
「おさな子がしだいしだいに知恵づきて、仏に遠くなるぞ悲しき」
苦しみの元は生まれてから身につけた悪癖だということである。後天的なものなら直すことできるし、来世に引き継がれる理屈もないことになる。
さて、仏教は個々の背負った苦悩を解消しようとする、教えであり営みである。
それは初期仏教では、無我であり、大乗仏教では空である。これが中途半端な教えでこれで悟りということはないと思う。
無我、空も自己存在を認めないのである。
それを説明するのに五蘊説を持ち出す。色、受、想、行、識の五蘊が寄せ集まって化和合しているに過ぎないから、実在しているわけではないというのである。
この理屈はそもそも五蘊というのがどこから来たかを無視している。生命を縁起的に頭で考えて分けたものに過ぎない。実際に分けようとすれば死んでしまう。五蘊なんてものはあり得ないものである。
もう少し分かりやすくいうと、例えば、ダイヤモンドがある、これは炭素の粒が集まったものである。本質は炭素の粒であり仮にダイヤモンドと呼んでいるだけであるという理屈になる。
しかし、幾多の縁起によって出来上がったものをダイヤモンドと呼び価値を認める、そこにそのダイヤモンドとしての自性を認めるべきでしょう。私は今ちゃんと生きていてこんな文章を書いている。私は存在しないなんて考えようもない。
「はじめにいのちありき」なんですよ。それは無限の縁起、宇宙全体の縁起により生じたもの。宇宙生命、つまり、宇宙一杯の仏の子として生まれ、他に行きようもなく宇宙の中に没する。それでいいのだ、そうでなくちゃ。
死んでからも未練たらしく生まれ変わりたい。生き方としてどうなんですかね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます