十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

彼岸入り

2014年09月20日 | 共生

今日は彼岸の入り。「暑さ寒さも彼岸まで」なんていうが近年は暑さが残っていることが多いが、今日は肌寒さを感じて、長袖のシャツを着ることに。
台風16号が昨日の進路予想では日本を狙ったような図であったが、さっき、台風情報を確認したら進路が大分西にずれて支那大陸の方へ行きそうでほっとしたところである。

彼岸については、以前にも書いたが自分としてはどうもしっくりこないのである。

ウィキペディアの説明をみてみると、次のように書かれている。

彼岸は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う佛事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ。俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。(引用終)

この波羅蜜(パラミータ)が完成とか到彼岸とかいうもので、到彼岸するための布施とか、持戒とかいう6つの徳目をいうのである。

波羅蜜と到彼岸という言葉は大蔵経のデータベースで引いてみると、それぞれ94812語、1560語で、到彼岸という使われ方は圧倒的に少ない。

彼岸なんてものはどこにあるのか。まさかお寺が彼岸というわけもない。到彼岸なんておかしいと書いたが、しかし、よく称える四弘誓願に「衆生無辺誓願度」というのがあって、この度というのが此岸から彼岸へ渡すという意味なので後から気がついてどう受け止めてよいか困ってしまった。しっくりこないが唱え言だからまあいいかで済ましている。

どこかいいところへ行くことではなく、今いるここをいいところにしなくてどこにそんな世界があるというのか、ということである。彼岸なんていうのは幻想、ファンタジーであるということを心得るべきだろう。

しかし、まあ、ファンタジーがなくてはという人はそれもよいであろう。自分の心の中だけなら・・・。

さて、上段で支那大陸と書いたが、中国というのは中国が戦後世界の中心である国と呼ばせようとした国名で、日本は戦前支那と呼んでいた。支那は昔からの国名でお経の中にも支那国と書かれ大蔵経には334語出てくる。
支那を西洋ではチャイナであり、英語では自らをチャイナと名乗っているのである。

日本は日本だが、英語圏からはジャパンと呼ばれて、アメリカは米国と呼ぶし、フランスは仏国、初めて聞いた人が仏の国があるのかと尋ねたという笑い話もある。何と呼ぶかは勝手みたいなものである。漢字だからそれにならえというのは通らない。気に入らないというなら、カタカナでチャイナと書くまでである。

とにかく、支那人が自分らの国が世界の中心というのは気に入らない。世界の中心はこの自分なのだから。

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