漢字の音符

漢字の字形には発音を表す部分が含まれています。それが漢字音符です。漢字音符および漢字に関する本を取り上げます。

漢字音符研究の魁(さきがけ) 後藤朝太郎 (中)

2021年11月07日 | 漢字音
漢字音符研究の魁となった『漢字音の系統』(1909年・明治42)
 前回に紹介した『文字の研究』(1910年)の前年に発行された『漢字音の系統』(六合館 1909年・明治42)の紹介をさせていただく。この本こそ、私が「漢字音符研究の魁」と位置づける本なのである。明治42年に東京の六合館から出版された228ページの本である。(この本は昭和12年(1937)にも出版社を関書院に替えて再版された。)
 
『漢字音の系統』(左は明治42年の初版、右は昭和12年の改訂版)

字音の観察には先ず字形を解剖する
 この本の前半で後藤は漢字音について、次のように書いている。
「字音の観察には、先ず字形を解剖して見るのが徑徢(ケイショウ・近道)である。例えば、今若し
  網の字は何故にモウの音を有するか。
  償の字は何故にショオの音を有するか。
 と云う問いが起これば、先ず此の字を解剖し、網は、望、盲、茫などと同じく亡、即ちモオ(一つにボオ)の音符を有するに依るもので、は、嘗、掌、常、裳、廠などと同類で尚、即ちショオの音符を有して居るからである、と云う点に着目すべきである。又
  奬の字は何故にショオの音を有するか。
  草の字は何故にソオの音を有するか。
 と云うに、は、戕、壯、將などと同じく爿ショオの音符を有するからであって、草の字は早ソウの音符を含んで居るからである。

 と云うように観て来ると大抵の文字は、殆ど其の総てが音符の方面から窺うことが出来ると云っても過言でない。
 下に漢字と、其の音符とを相対照させて、更に多くの適例を挙げてみよう。
  様の音ヨオ‥‥‥‥‥‥‥‥羊
  養の音ヨオ‥‥‥‥‥‥‥‥羊
  勇の音ユウ‥‥‥‥‥‥‥‥用
  の音ヨ‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  軋の音アツ‥‥‥‥‥‥‥‥乙
  齒の音シ‥‥‥‥‥‥‥‥‥止
  衷の音チュウ‥‥‥‥‥‥‥中
  築の音チク‥‥‥‥‥‥‥‥竹
  托の音タク‥‥‥‥‥‥‥‥屯
  徒の音ト‥‥‥‥‥‥‥‥‥土
  究の音キュウ‥‥‥‥‥‥‥九
  懇の音コン‥‥‥‥‥‥‥‥艮
  轗の音カン‥‥‥‥‥‥‥‥咸
  錮の音コ‥‥‥‥‥‥‥‥‥古
  簿の音ボ‥‥‥‥‥‥‥‥‥甫
  嫋の音ジョオ‥‥‥‥‥‥‥弱
 音符は大略かくの如くに字面の一部分に含まって居る。

漢字音符に2種類がある
 音符には、羊、竹、土、貝の字の如く、形の方において既に標準となって居ると同時に、又、他方に於いて音の符号としても用いられて居るものがある。
 しかし、其の他の多くは上記の字とは別物である。今、字典類の画引き索引に見える、字形の標準となるものを全部音符として認めると、上記の整った音符よりはるかに多く、両方の字を合計すると実に八百余に達する。此の数は余りにも多すぎる感がするが、しかし、音の立場から字形を解剖し、帰納的に観ると、別々に立つべき音符があまた発見される。

 今ここに或る一群の漢字から、その音符を抽象して立てて見ると、例えば、
  僊、遷、韆、躚‥‥‥‥‥‥‥‥‥セン
 に於いて其のセンの音が出されて居る共通の部分は何処かと云うに、䙴であることがわかる(注:現代の新字体は字形が変化している)。然るに此の字は唯、音の標準としてのみ立てられるだけで、画引き索引の場合には決して立てられない(注:現在の漢字字典では立てられている)。いったい漢字にはセン及びゼンの音を有するものが頗(すこぶ)る多くあるが、しかし其の音符となるものを列挙すると、僅かに次の15個に帰せられる。
  先、占、戔、専、川、扇、韱、廌、羴、䙴、泉‥‥‥‥‥‥‥セン
  前、善、然、全‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ゼン
 かくの如き音符は、上述の如く漢字全体を通じて八百余に達している。

音のみを示す音符と、意味も示す音義両方面を兼ねた音符がある
 音符は一種類の音に於いて、多くは12~13個、少なくとも2~3個の音符が発達しているが、その音符には、純粋に其の字の音のみを示すものがあり、また半ば意義をも示して音義両方面を兼ねたものもある。漢字の大多数は後者に属して、其の根本に音義両方面を兼ねたものが随分ある。例えば、
  杉の字の音サン‥‥‥‥‥‥‥‥彡サン(枝振りの整然たること)
  輻の字の音フク‥‥‥‥‥‥‥‥畐フク(物が豊かに集合すること) 
  忘の字の音ボオ‥‥‥‥‥‥‥‥亡ボオ(物をなくすること)
  酣の字の音カン‥‥‥‥‥‥‥‥甘カン(味うまきこと)
  奸の字の音カン‥‥‥‥‥‥‥‥干カン(おかすこと)
  決の字の音ケツ‥‥‥‥‥‥‥‥夬ケツ(剔(えぐ)り断つこと)
  授の字の音ジュ‥‥‥‥‥‥‥‥受ジュ(うけること)
  暮の字の音ボ(古音マク)‥‥‥莫マク(かくれること)
  鳩の字の音キュウ‥‥‥‥‥‥‥九ク(鳩の鳴き声)
  鶏[鷄]の字の音ケイ‥‥‥‥‥奚ケイ(鷄の鳴き声)
  蛙の字の音ア(古音ガイ)‥‥‥圭ガイ・ケイ(蛙の鳴き声)

 以上の如きは其の好例である。要するに諧声文字(形声文字)が含む音符が単に音を現すことのみを、その役目の全部としているとは云えないのである。以上列挙した類の文字は、これを諧声に会意を兼ねた文字(現在の会意形声文字)と云い、その音符は一面より見れば音符で、他の一面より見れば意義を示して居る。

組み合わせ字も音符となる
 これまで説明した音符は漢字の中に含まれているが、字形全体で音符の役目をはたす単位となるものが少なくない。例えば、辱ジョクの字について見るに、これには何らの音符も認められない。しかし、これが音符の単位となって更に、
  ジョク、ジョク、ジョク、ジュク・ドウ、の如き諧声文字を発達させている。
 同様に、相の字は
  想ソウ、霜ソウ、孀ソウ、廂ショウ、湘ショウ、に通じており、音符の単位として見ることが出来る。

音符の代用
 音符には同音の音符を以って代用とすることがある。これは、代用となる音符の画がむずかしいものの場合に限って多く起こるようである。
  キン   禁と今 ⇒ 襟と衿
  リョオ  量と良 ⇒ 糧と粮
  リュウ  留と㐬 ⇒ 瑠と琉
  サイ   妻と西 ⇒ 棲と栖
  エン   袁と爰 ⇒ 猿と猨

字音の転換
 同じ音符を有している漢字が、同一の音を有していないのは、結局その音符の音が他の音に転じて行くからである。少なくとも其の音符の古音と、今昔の間に音韻上の変遷があったということ。これがその原因の主たるものである。以下にそれらの音符について、その諧声文字を列挙してみよう。

至シの諧声文字
  1.テツ 姪、垤
  2.チツ 窒、銍
  3.チ  致、緻、輊
  4.シツ 室、蛭、桎
  5.シ  鵄
 至の字には単独の時のシの音以外に、テツ、チツ、チ、シツの四通りの音がある。これらの音は実際に於いて、いずれもかつて至の音が取っていた古音の片見として見るべきものである。つまり至の音は最初テツの音からチツ、チ、シツ、シと順次うつり移って、シとなったものである。それ故、垤における至の音テツが、唯(ただ)の時の至の音シに符号していないからと云って、直ちに垤テツが至の音符を有する諧声文字ではないものの如くに思うは誤りである。至の字音については以上のような考え方が必要である。(注:これは貴重な提言であるが、私個人としては判断がつかない。以下の區クも同じ。)

クの諧声文字
  1.ク   嶇、軀、驅、敺
  2.チュ  
  3.スウ  
  4.ウ   
  5.オオ  漚、嘔、甌、歐、鷗、嫗
 區の諧声文字については、その単独の時のクの音が本音であって、それからチュ、スウ(又はス)、ウ、オオにと転じ移っている。それ故、これらの諸音は、區クの音がかつて経過した音と見るべきである。


字音の転換には法則がある
 字音の転換には法則があり、その転換によって色々な音の変化は秩序と統一を得ている。
1. カ行音とラ行音との転換
   各カクの諧声文字   1.カク閣   2.ラク落
   僉センの諧声文字   1.ケン險(険)2.レン斂
   林リンの諧声文字   1.キン禁   2.リン淋
2.タ行音とラ行音との転換
   龍リュウの諧声文字  1.チョオ寵  2.リョオ龍
3.ハ行音とラ行音の転換 
   聿イツの諧声文字   1.ヒツ筆   2.リツ律
   品ヒンの諧声文字   1.ヒン品   2.リン臨
4.マ行音とラ行音の転換
   萬マンの諧声文字   1.マイ邁   2.レイ厲
   里リの諧声文字    1.マイ埋   2.リ理
5.カ行音とマ行音の転換
   黒コクの諧諧声文字  1.コク黒   2.モク黙
   毎マイの諧諧声文字  1.カイ晦   2.マイ毎
   勿モチの諧諧声文字  1.コツ忽   2.モツ物

第二篇 字音系統表
 『漢字音の系統』の後半はP105~229まで125ページに渡って漢字音符が綴音の発音順に配列されている。以下の図は142ページを示している。

 上に綴音を示し、続いてその音符と、音符に所属する音符家族字を列挙している。個々の家族字で発音が音符字と異なるものは、その漢字の右辺にカタカナでルビを振っている。

 最後のページに付記として収録した漢字一覧の統計表がある。それによると、
  綴音220、音符828、収録字数の合計は現行正字5,326、俗字略字624、となっており、収録字数の合計は5,950字となる。
 この字数は後藤がこの本の第一篇「序説」で「我が小学・中学・その他諸学校の教科書・参考書類・衆議院速記録・その外諸種の新聞雑誌類などのうちから残らず漢字を拾い、網羅して見ても先ず5,950字を以って大体の限度としている」と説明しているように、当時の日本人が用いる漢字をほぼ網羅したものと云ってよい。
 これだけ多くの漢字を音符ごとに分類して一覧表にし、しかも前半でそれらの音符についてかなり理論的に解説した本書は、まさに漢字音符研究の魁(さきがけ)と云える。むしろ現在の漢字音符についての理解よりはるか先を行っている感がある。これだけの研究が明治末期になされていたことは驚嘆する。

改訂版の音符数
 なお、後藤朝太郎は昭和12年(1937)に『改訂 漢字音の研究』と題して、関書院から改訂版を発行している。内容はほぼ同じであるが、前書に加え、「漢字活用の指針」「文字研究の一端」を加えている。
 収録漢字は、綴音219、音符830、現行漢字5,186、俗字・略字657、で漢字の総数を5,843字として、最初の版より107字減らして整理している。

 今後の漢字音符研究は、後藤朝太郎が本書や『文字の研究』で提案した課題をいかに解釈し今後に生かしてゆくかが重要な課題となる。


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