オオワシの故郷・湿原大回廊の異変
急ピッチで進む多国籍企業の資源開発
知床から北へ約1000キロ。ついにオオワシの故郷にたどり着いた。
2003年7月、サハリン北部の東海岸に南北300キロにわたって続く「湿原大回廊」。そのど真ん中に位置するチャイボ湾沿いに筆者は立った。野生生物の獣医師・齊藤慶輔さん(43)に誘われて同行した日露のオオワシ共同調査だ。
「なんということだ」
カラマツに似た10メートルほどの落葉針葉樹グイマツを見上げたロシア人のタフガイは頭を抱え叫んだ。周囲では、ブルドーザーが樹木をなぎ倒して道路を造っている。重機に囲まれたグイマツの樹上にオオワシの巣があり、雛がいるではないか。
声を上げたのは、ウラジーミル・マステロフさん(48)。モスクワ大教授でオオワシ研究者だ。かつてソ連海軍のダイバーとして、バルト海で機雷処理にあたったという。
「雛は生きているのだろうか」。マステロフさんは一瞬顔を曇らせた。たくましい腕で、お手製の金具を足に取り付け、グイマツにとりつき、登り始めた。
しばらくして、樹上にすっくと立ち、こちらに笑顔で手を振った。
「雛は無事だ。ちゃんと親が餌をやっているよ」
チャイボ湾とその周辺を巡ると、豊かな湿原、ラグーン(潟湖)、蛇行した河川が次々と現れる。サハリンは、尾瀬や釧路湿原が南北に延々と続くような巨大な湿原の島ともいえる。日本では百名山で見られる色とりどりの高山植物の花がここでは標高ゼロメートルの海岸や湿地で咲いている。
オオワシにとっては魚などの食物を得て、子育てをする安息の地だ。
この楽園で、日米露など多国籍企業からなる石油天然ガス共同体「サハリン1」の大規模工事が始まっていた。高さ約90メートルの原油掘削施設リグがそそり立つ。森林は伐採され、湿原は土砂で埋められ、新たな道路、町が建設されている。
サハリンの大陸棚には膨大な石油と天然ガスが眠っている。ソ連崩壊の混乱の中で、石油メジャーはこの資源を狙って次々に事業を興した。21世紀に入り、湿原の島は空前の好景気に沸いている。
齊藤さんとマステロフさんは2000年から、オオワシの雛に発信器を付けて、その行動をサハリンと知床で追い続けている。
発信器の追跡することで、開発によるオオワシへの影響を監視するためだ。
この活動で、エネルギー会社は一部で道路工事の変更などの対策を始めた。だが、大規模開発の中で、それは気休めに過ぎないかもしれない。
サハリンでの開発の脅威、日本での鉛中毒汚染。オオワシに次々と危機が迫っている。
マステロフさんは、グイマツの樹上の巣に、発信器を付けたオオワシの雛を戻した。
「なんとしても巣立ってくれ。そして、冬には知床で再会しよう」
齊藤さんは祈るように巣を見上げた。
少数民族が嘆く開発の脅威
「これは私たち民族の魂なのです」
サハリンの少数民族「ニブフ」を代表する作家ウラジーミル・サンギさん(73)が、半透明な茶色の美しい小石を手渡してくれた。琥珀(こはく)だった。
チャイボ湾岸のわが調査チーム・キャンプ地のすぐ脇の丘には、サンギさんの小屋が立っている。
「これは神だ」
小屋の前の海岸に立つ3本のグイマツの前で、サンギさんは民族の神話を語り始めた。
「グイマツの松ヤニが固まって人間ができた。琥珀は、その松ヤニが何万年も経て化石化したもので、ニブフの遠い祖先の生きた姿なのだ」
サハリンには、60もの北方系少数民族がいる。最大のニブフ民族は、約2000人だ。
かつて、北サハリンにはニブフ、南には樺太アイヌと呼ばれたアイヌ民族がいたが、戦後、アイヌ民族のほとんどは北海道に移された。東海岸のニブフ民族も、ソ連時代、地方都市ノグリキに半強制的に移住させられたという。
ニブフ民族は昔、アザラシなど海生哺乳類の猟や漁業で暮らしてきた。
知床半島など北海道オホーツク海沿岸で5世紀ごろに出現し、13世紀ごろ姿を消したオホーツク人は、ニブフ民族ではないか。
作家の司馬遼太郎は「街道をゆく38オホーツク街道」(朝日新聞社)のなかで推測している。
サンギさんは、1960年代後半から80年代にかけ、モスクワで活躍。民族の豊かな精神と暮らしを描いた作品で、ロシア国家賞を受賞した。
ゴルバチョフ大統領が登場したペレストロイカの時代、北方少数民族の権利を守る政治活動にも従事した。96年にサハリンに戻り、漁業や文筆活動をしながら、ニブフなど少数民族の言語、文化を守る運動を進めている。
「ニシンが大量死し、コマイが激減した。油田開発、森林破壊以外に原因は考えられないが、彼らは聞き入れようとはしない」
サンギさんが、開発の脅威を話し始めた。そのとき、雄々しいオオワシが神のグイマツに止まった。
「プランクトンから始まって、小エビ、小魚、サケやイトウ、そしてオオワシへとつながる食物連鎖のすばらしさを見なさい。これを壊すことは許されない」
北サハリンの湿地帯に埋まる、何万年も前からのニブフの魂である琥珀。海には、森や生き物の化石である原油が眠っている。
サンギさんは、遠浅の湾に立つ原油掘削機リグを睨みつけた。
「石油とは現代人が開けたパンドラの箱だ」
知床に暮らしたオホーツク人の子孫かもしれないサンギさんは語気を強めた。
数年後、その警告が、現実の災いとして、知床に襲いかかる。まさかそんなことになるとは、誰も想像できなかった。
http://otona.yomiuri.co.jp/trip/fromntos/090422.htm
急ピッチで進む多国籍企業の資源開発
知床から北へ約1000キロ。ついにオオワシの故郷にたどり着いた。
2003年7月、サハリン北部の東海岸に南北300キロにわたって続く「湿原大回廊」。そのど真ん中に位置するチャイボ湾沿いに筆者は立った。野生生物の獣医師・齊藤慶輔さん(43)に誘われて同行した日露のオオワシ共同調査だ。
「なんということだ」
カラマツに似た10メートルほどの落葉針葉樹グイマツを見上げたロシア人のタフガイは頭を抱え叫んだ。周囲では、ブルドーザーが樹木をなぎ倒して道路を造っている。重機に囲まれたグイマツの樹上にオオワシの巣があり、雛がいるではないか。
声を上げたのは、ウラジーミル・マステロフさん(48)。モスクワ大教授でオオワシ研究者だ。かつてソ連海軍のダイバーとして、バルト海で機雷処理にあたったという。
「雛は生きているのだろうか」。マステロフさんは一瞬顔を曇らせた。たくましい腕で、お手製の金具を足に取り付け、グイマツにとりつき、登り始めた。
しばらくして、樹上にすっくと立ち、こちらに笑顔で手を振った。
「雛は無事だ。ちゃんと親が餌をやっているよ」
チャイボ湾とその周辺を巡ると、豊かな湿原、ラグーン(潟湖)、蛇行した河川が次々と現れる。サハリンは、尾瀬や釧路湿原が南北に延々と続くような巨大な湿原の島ともいえる。日本では百名山で見られる色とりどりの高山植物の花がここでは標高ゼロメートルの海岸や湿地で咲いている。
オオワシにとっては魚などの食物を得て、子育てをする安息の地だ。
この楽園で、日米露など多国籍企業からなる石油天然ガス共同体「サハリン1」の大規模工事が始まっていた。高さ約90メートルの原油掘削施設リグがそそり立つ。森林は伐採され、湿原は土砂で埋められ、新たな道路、町が建設されている。
サハリンの大陸棚には膨大な石油と天然ガスが眠っている。ソ連崩壊の混乱の中で、石油メジャーはこの資源を狙って次々に事業を興した。21世紀に入り、湿原の島は空前の好景気に沸いている。
齊藤さんとマステロフさんは2000年から、オオワシの雛に発信器を付けて、その行動をサハリンと知床で追い続けている。
発信器の追跡することで、開発によるオオワシへの影響を監視するためだ。
この活動で、エネルギー会社は一部で道路工事の変更などの対策を始めた。だが、大規模開発の中で、それは気休めに過ぎないかもしれない。
サハリンでの開発の脅威、日本での鉛中毒汚染。オオワシに次々と危機が迫っている。
マステロフさんは、グイマツの樹上の巣に、発信器を付けたオオワシの雛を戻した。
「なんとしても巣立ってくれ。そして、冬には知床で再会しよう」
齊藤さんは祈るように巣を見上げた。
少数民族が嘆く開発の脅威
「これは私たち民族の魂なのです」
サハリンの少数民族「ニブフ」を代表する作家ウラジーミル・サンギさん(73)が、半透明な茶色の美しい小石を手渡してくれた。琥珀(こはく)だった。
チャイボ湾岸のわが調査チーム・キャンプ地のすぐ脇の丘には、サンギさんの小屋が立っている。
「これは神だ」
小屋の前の海岸に立つ3本のグイマツの前で、サンギさんは民族の神話を語り始めた。
「グイマツの松ヤニが固まって人間ができた。琥珀は、その松ヤニが何万年も経て化石化したもので、ニブフの遠い祖先の生きた姿なのだ」
サハリンには、60もの北方系少数民族がいる。最大のニブフ民族は、約2000人だ。
かつて、北サハリンにはニブフ、南には樺太アイヌと呼ばれたアイヌ民族がいたが、戦後、アイヌ民族のほとんどは北海道に移された。東海岸のニブフ民族も、ソ連時代、地方都市ノグリキに半強制的に移住させられたという。
ニブフ民族は昔、アザラシなど海生哺乳類の猟や漁業で暮らしてきた。
知床半島など北海道オホーツク海沿岸で5世紀ごろに出現し、13世紀ごろ姿を消したオホーツク人は、ニブフ民族ではないか。
作家の司馬遼太郎は「街道をゆく38オホーツク街道」(朝日新聞社)のなかで推測している。
サンギさんは、1960年代後半から80年代にかけ、モスクワで活躍。民族の豊かな精神と暮らしを描いた作品で、ロシア国家賞を受賞した。
ゴルバチョフ大統領が登場したペレストロイカの時代、北方少数民族の権利を守る政治活動にも従事した。96年にサハリンに戻り、漁業や文筆活動をしながら、ニブフなど少数民族の言語、文化を守る運動を進めている。
「ニシンが大量死し、コマイが激減した。油田開発、森林破壊以外に原因は考えられないが、彼らは聞き入れようとはしない」
サンギさんが、開発の脅威を話し始めた。そのとき、雄々しいオオワシが神のグイマツに止まった。
「プランクトンから始まって、小エビ、小魚、サケやイトウ、そしてオオワシへとつながる食物連鎖のすばらしさを見なさい。これを壊すことは許されない」
北サハリンの湿地帯に埋まる、何万年も前からのニブフの魂である琥珀。海には、森や生き物の化石である原油が眠っている。
サンギさんは、遠浅の湾に立つ原油掘削機リグを睨みつけた。
「石油とは現代人が開けたパンドラの箱だ」
知床に暮らしたオホーツク人の子孫かもしれないサンギさんは語気を強めた。
数年後、その警告が、現実の災いとして、知床に襲いかかる。まさかそんなことになるとは、誰も想像できなかった。
http://otona.yomiuri.co.jp/trip/fromntos/090422.htm