(JNN 2009/05/22)
山の神である熊を神の国へ還す、伝統儀式に民族の精神を学ぶ 小宮朗
イヨマンテとは、アイヌ民族の最も有名な伝統儀式です。山の神から託された子熊を家にお迎えし、大きくなるまで家族として育て、大きくなったら、人を集めて大きな宴を起こして、丁寧にお送りする儀式です。かつては「野蛮未開な習慣」として政府に禁止され、戦後、伊藤久男が「イヨマンテの夜」を歌い流行し、観光がブームだったころは、観光地の目玉とされていた時期もありました。
アイヌと聞くと、この儀式をイメージする方は今でも少なくないと思います。生活儀式の変化により、昔のようには行われなくなりましたが、この儀式の中に伝えられている精神は、今でもしっかりと生きています。ですが、いまだに野蛮な儀式だという中傷を受けることも少なくありません。
2008年2月16日(土)18時半から、なごやボランティアNPOセンターにて、アイヌ文化総合講座の第6回『イヨマンテについて、アイヌと共に語る夜』が行われました。参加者は30名ほどで、名古屋近郊を中心に遠くは東京、新潟、神戸からも人が来ていました。内容は、はじめにイヨマンテについての説明があり、80年代に放送されたイヨマンテを取材した番組のビデオを見て、その後会場での質疑・応答がありました。
この総合講座は2007年より連続講座として行われており、他にはアイヌ語教室やアイヌ料理教室などもあったそうです。主催は「なごやアイヌ語に触れよう会」で、なごや環境大学(実際に大学があるわけではなく、名古屋市内で行われるさまざまな団体の市民講座が対象となっている)の講座の一環でもあります。
(講座の説明文より)
イヨマンテは「クマを生贄にする野蛮な儀式」という偏見のもと、行政に禁止されたり、動物愛護団体に抗議をされたりしていますが、すべて偏見に基づくもので、内容や精神を理解しての抗議は一切ありませんでした。この講座を通じて「何故イヨマンテが行われるのか」についての理解を深めていただきたいと思います。
ビデオをはじめとする講座のもようをご報告します。
■ビデオの内容
ビデオでは、80年代に旭川で行われたイヨマンテと、それに至るまでの過程が記録されていました。講師の説明によれば、この頃イヨマンテはもうすでに何十年も行われておらず、経験者の高齢化により伝統を失ってしまう危機感から行われることになったとのことでした。
ビデオは、イヨマンテの復活に際し、テレビ局の取材を受け入れるのかという話し合いの映像から始まりました。賛成・反対それぞれの意見がある中、それでもテレビ局の取材を受け入れたのは、イヨマンテとそれにまつわる諸々のアイヌ文化を、映像に留めておくべきだという理由からでした。
それから番組はチセ(家)の新築、宴に使われる小道具の材料集めと製作、そして本番へと進んでいきました。本番だけでなく、こうした準備の1つ1つの中にもアイヌ文化(先人たちの知恵や思想)が含まれていました。
■質疑・応答
イオマンテ・イヨマンテどっちなのか?
イヨマンテとは、もともと、イ(それ)オマン(送る)テ(私が)であるが、イヨマンテの方が言いやすいので、イヨマンテと言うこともあるそうです。つまり、イオマンテ、イヨマンテどっちの言い方が正解でどっちは間違いということはないとのこと。
これは前提としてアイヌ語には文字がなく、書き言葉ではなく話し言葉として発展した言語であるということを考えれば納得がいきます。
熊は神様への生贄ではないのか?
アイヌ民族の宗教観では、熊そのものが神(カムイ)なのだそうです。だから超越した存在としての神がどこかにいて、その神に対し熊が「捧げられる」のではなく、神である熊をもといた神の国へ「送る」こと=「イヨマンテ」。
アイヌ民族が考える熊とは一動物ではなく、肉や毛皮をもって「神の国」から「人間の国」にやってきた「神」なのだそうです。その証にアイヌ語では熊のことを「キムンカムイ(山の神)」と呼びます。つまり、行為としては「熊を殺す」ことであっても、アイヌ民族にとってその行為には「神を送る」という意味があるのだと改めて感じました。こうした、行為の意味を理解することが、文化を理解することなのでしょう。
イヨマンテはなぜ残虐と言われるのか?
会場では、どうしてイヨマンテを残虐と思うのか、逆に理解できないといった意見や、イヨマンテが異質なものとは思えないといった意見が出て、それに関連し「と殺(食用を目的に獣畜を殺すこと)」の話も出ました。
この質問に対し、会場で結論が出たわけではないので、ここからは私自身が考えたことを書きたいと思います。これは前の質問とも繋がってくると思うのですが、まず「殺す」=「残虐」と考える人にとっては、イヨマンテもやはり「残虐」なのだと思います。私は殺すことが一概に残虐とは思えませんが、まずこの点は押えておくべきです。
つぎに「殺す」=「残虐性は一切含まれない」のでしょうか。いや、そんなことはありません。なぜなら、私は意味もなく命を奪うことはやはり残虐だと思うからです。このような私の「思い」から考えるに、残虐か残虐でないかの判断は、「行為そのもの」ではなく、そこにどのような「意味」=「意志の介在」があるかによって下されるようです。
神を送るのは残虐でしょうか?それとも残虐ではないでしょうか?わけのわからない祭りでかわいい動物が殺されることは?自分たちが食べるために動物を殺すことは?金もうけのために大量の動物の命を奪うことは?人間の命を奪うことは?私たちはこれらの疑問が発するたびに判断を迫られるのです。
しかし、そもそもこの疑問文そのものが間違っていたとしたら?イヨマンテが残虐か残虐でないかを判断する前に、イヨマンテにはどのような意味がこめられているのか知って欲しい、これが今回のセミナーに対する主催者の思いであると感じました。
儀式のクライマックス付近で熊に向かって射る花矢は、熊にとって痛いか?
ここでいう花矢とは彫りが施された木製の矢のことで、クライマックス(熊を殺す)前に熊に向かって放たれますが、鉄の矢尻がついているわけではなく、殺傷能力はありません。熊にとって致命傷となるのは、疲れきった頃に木の棒で首を挟まれることだそうです。これにより熊は窒息し、死に至ります。
その前に打たれる花矢が熊にとって痛いかそうでないかについては、熊は皮下脂肪が分厚いため痛くない、熊は遊んでもらっていると思って興奮しているから痛くない、などの意見もあるそうです。しかし、本当のところどうなのか、それは熊に聞いてみないとわからないとのことでした。
家はイヨマンテの度に新築するのか?あの家は寒くはないのか?昔ながらの生活をしたいか?
映像ではチセ(家)の新築作業が写されていましたが、イヨマンテの行程としてチセの新築が含まれているわけではないそうです。映像のイヨマンテの時には、前にあったチセが老朽化していたので、せっかくだから新築したとのことでした。
チセは茅葺きで、何百年も持たせるものというよりは、古くなったら新築するもののようです。このように家を何年かに一度新築していると、若い人も自然と家の建て方を覚えます。集団が小さくそれほど分業が進んでいない社会の場合、1人の人が何でもできることは、とても重要です。
それからこのチセですが、見た目はそんなに温かそうではありません。映像のイヨマンテの時にチセに泊まった人たちは次の日には皆風邪をひいてしまったそうです。けれどこれは暖の取り方を知らない現代のアイヌが、暖めるには火をどんどん燃やせば良いと考え、それにより上昇気流が発生、かえって温度が下がってしまったためだそうです。昔ながらに、ちょろちょろと小さな火を絶やさずに炊いていれば、それなりに暖かいのではないかとのことでした。
また、このような昔ながらの生活をしたいかという質問に対する答えは、「人による」とのことでした。私なども電気のなかった頃の時代に思いを馳せることもありますが、今もこうしてパソコンの便利さにあやかっております。
アイヌ民族の「長老」の位置づけは?
「長老=霊的な力がある」とする民族の話を聞いたことがあるが、アイヌ民族の場合はどうなのか?という趣旨の質問でした。解答としては、アイヌ民族の場合は、霊的な力をもつかどうかに年齢はあまり関係がないとのこと。もちろん、長老は色々なことをよく知っているので、そういった意味で尊敬の対象にはなるのではないか、とのことでした。
イヨマンテを自分がする立場になったらできるか?
講師の方から自分がイヨマンテをする立場になったらできますか?という質問がありました。イヨマンテは家畜として飼っていた動物を殺して食べるのではなく、自分の家族同様に可愛がっていた動物を殺して食べます。私は猫を飼っていますが、この猫のことを自分が殺せるかどうか考えてみると、複雑な気持ちになります。
講師の方から熊の場合はある年齢になると人間に危害を加える可能性があるので殺す必要性があり、イヨマンテが生まれたのでは、といった説明もありました。また、映像に出てきた熊を世話していたフチ(おばあさん)は熊が殺されるのを見て「可愛そう、可愛そう」と言いながらも、捌かれて出てきた熊の肉を「旨い、旨い」と食べていたそうです。
講師の方はこの辺の感覚はその立場になったことがないからわからないと言っていましたが、私はそれとこれとは別、どっちの感情も本当で、可愛そうだからってまずいわけではないし、旨いと言ったからって可愛そうと思っていないわけではない、と思いました。
それから、アイヌ民族の中にもイヨマンテに反対という人もいるそうです。その人は自分が育てた熊のイヨマンテを経験しており、やっぱり可愛そうという理由から反対とのことでした。しかし、大きくなった熊を殺すことが可愛そうか、それとも檻に閉じ込めておくことが可愛そうか、その人の中でどちらの考えが優位になるかは、年齢を重ねたり、イヨマンテを何度も経験したりしているうちに変わるかもしれません。
もちろん、それでも変わらないということもあるとは思いますが。同じようにその社会の中でも、環境や時代によって考え方は変わっていくものだと思います。だから、私たちは他者の文化について、現在の自分を基準に、安易に善悪の判断をし、干渉してはならない、と強く思いました。
http://www.news.janjan.jp/culture/0905/0905173539/1.php