先住民族関連ニュース

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でっこの会だより (48)川原平の旧家

2009-05-26 | 日記
(朝日新聞2009年05月26日)
 世界遺産・白神山地に最も近い村、川原平。周辺からは縄文遺跡も出ているし、近くの大秋には、戦国期までアイヌがいたと読める記録もあるらしい。古い村のようにも思えるが、その生業から考えれば、村の成り立ちは江戸時代における弘前という都市の成立と深くかかわっているようだ。
 川原平は江戸時代初期の成立とも言われており、文書記録でもそれ以降にならないと出てこない。川原平という表記も気になるところで、「~平(たい)」の地名は新しく開発されたところに多い。
 何より、川原平の旧家に伝わる次のような話が興味深い。「本家はもともと秋田鷹巣の富豪で、津軽為信が目屋の材木を抵当に軍資金を借りた。その金を為信が返すことができなかったので、本家が木を売りさばくことにしたが、為信が木の搬出に川を使用することを許さない。そこで今の場所に移ってきた」
 この伝承の真否はどうあれ、次のようには考えられるだろう。白神山地に最も近い地として、川原平の場は古くから断続的に活用されてきた。江戸時代までは村の成立とはならなかったが、江戸時代に入り、弘前という城下町の経営のため、用材や燃料となる薪の供給が必要になると、そうした需要にこたえるべく、林業に携わる人々が入り込んでくることとなる。
 この林業と、よそからすれば零細とも言える田畑を組み合わせることで、年間を通じて生活できる構造が生まれた。つまり、江戸時代という文脈の中で、林業が業として成り立つようになったことから、安定的な生活が確立され、ようやく村が誕生したと考えられる。
 隣接する砂子瀬もまた、川原平に準ずる最上流の村として、同様に山仕事に携わることとなった。もっともこちらには、もとから田畑による生活がまがりなりにもあった。それでもやはり、林業と重ねることで、江戸時代の生活水準に見合うだけの生計を立てることが可能になったのだろう。
 最上流の山村もこうして、時代に取り残された古き共同体ではなく、江戸時代に形成された広域的な人間ネットワークのうちに初めて成り立つことが可能になった。これはこれで、この時代の新しい村の姿だった。
(山下祐介・弘前大准教授)
http://mytown.asahi.com/aomori/news.php?k_id=02000370905260001

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実弟寄贈の22点 ビッキ初期作品 音威子府で公開

2009-05-26 | 日記
(北海道新聞 05/25 13:40)
 【音威子府】一九八九年に亡くなった砂澤ビッキさんの初期の彫刻作品と父母、弟の作品計三十点がエコミュージアムおさしまセンターに寄贈され、一般公開されている。
 寄贈したのは、砂澤さんの実弟一雄さん。一雄さんが営む釧路市阿寒湖畔の民芸品店閉店に伴い「兄が晩年を過ごし、記念館がある音威子府に」と寄贈を決めた。
 ビッキさんの作品は大小合わせて二十二点。畳一枚ほどの大きさがある民芸品店の屋号を彫った看板や、観光客相手に販売していたペンダントやブローチなどで、五〇年代前半に制作された。
 父トアカンノさん(和名・市太郎)の作品は四〇年に制作した親子クマの彫刻。母ベラモンコロさんの作品は縦横各一メートルと、縦一メートル横六十センチの刺しゅう二枚。一雄さんのは九八年、米国スミソニアン博物館で開かれた「アイヌ展」に出展した木彫作品を含め五点。
 千見寺正幸村長は「最期の地に記念館を建てて七年目。大切に展示公開し、ビッキの足跡をたどる貴重な資料としたい」と話している。(宗原均通信員)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki4/167373.html#list

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