先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

アイヌの家族、未来に伝承 撮影続ける写真家

2016-10-05 | アイヌ民族関連
産経ニュース-2016.10.5 06:00

 撮影中に川上恵さんの長男諒ちゃんの衣装を整える写真家の前沢卓さん(左端)=8月、北海道幕別町
 北海道中標津町の写真家前沢卓さん(69)が、アイヌ民族の家族をテーマにした写真集「命の継承」(仮題)の出版を目指し、道内で撮影を続けている。2014年10月から撮り始めた家族は、出版する上で目標としていた100組に今月中にも達する見込みで、「未来に生きるアイヌに、今を生きるアイヌのことを伝えたい」と意気込む。
 「雨が降る前にもう1枚だけ」。8月28日の昼下がり。幕別町の「蝦夷文化考古館」の玄関先で、前沢さんが札幌市東区のアイヌ文化伝承者川上恵さん(31)と会社員の夫裕之さん(32)、生後4カ月の長男諒ちゃんの3人家族にレンズを向けた。
 「モレウ」(アイヌ語で渦巻き)、「アイウシ」(とげ)などのアイヌ文様で彩られた木綿衣や鉢巻きを身に着けた3人は、穏やかな表情でカメラを見つめ、辺りにシャッター音が響いた。
http://www.sankei.com/photo/story/news/161005/sty1610050001-n1.html

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愛用のカメラ展示も 没後20年、京都で星野道夫さん写真展

2016-10-05 | 先住民族関連
京都新聞 【 2016年10月04日 09時03分 】

豊かな生命の世界を追い続けた星野道夫さんの写真展(京都市下京区・京都高島屋グランドホール)
 アラスカの大自然を撮り続けた写真家星野道夫さんの作品を集めた特別展「没後20年 星野道夫の旅」が、京都市下京区の京都高島屋グランドホールで開かれている。悠久の時間の営みを切り取った作品は今も人気が衰えず、幅広い世代の来場者が訪れている。
 星野さんは千葉県出身。極北、アラスカなど厳寒の地にたくましく生きる動植物や人間、風景を撮影したが、1996年カムチャツカで取材中、ヒグマに襲われ43歳で亡くなった。同展は約250点の写真のほか、作品に添えた文章、愛用のカメラ、カヤックも展示する。
 ツンドラを渡るカリブーの群れ、海原をジャンプするザトウクジラは、呼吸や水しぶきの音が聞こえそうなほど臨場感豊かだ。天空を覆うオーロラ、白いクジラの骨が並ぶ遺跡、生き生きとした先住民族の子ども、愛らしい動物の赤ちゃんなど、写真家の優しいまなざしが感じ取れる。
 妻の直子さん(46)は「遠い場所の出来事でも、自分たちがどう生きるのか考えさせてくれる。ゆっくり作品を見ながら、メッセージを受け取ってもらえていてうれしい」と話した。10日まで。有料。
http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20161004000027

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地引き網や観察会など多彩 白老でアイヌ文化体験催事

2016-10-05 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 (2016年 10/4)
 白老町で1、2日の両日、アイヌ文化を体験するイベントが行われ、町内外から多くの人が参加した。町内でアイヌ文化の普及啓蒙(けいもう)に取り組む白老モシリが白老港で地引き網漁体験、アイヌ民族博物館が湿地をテーマにした観察会などをそれぞれ開催。秋の味覚や自然、アイヌ文化との触れ合いを楽しんだ。
 ■地引き網体験に150人超
 白老モシリ主催の地引き網漁体験は1日、白老港第3商港区で開かれ、定員を上回る150人以上が来場した。漁体験ではあらかじめ仕掛けた網を協力して砂浜に引き上げ。カレイやカジカなど季節の魚が見え始めると参加者から大きな歓声が上がった。会場ではチマチェプと呼ぶサケの串焼きやオハウ(塩汁)などが振る舞われたほか、子ども向けの狩猟体験コーナーなどにも人気が集まった。
 白老町緑丘の吉田奏太君(11)は2人羽織の要領で手ほどきを受けながらサケの解体を初めて体験。「ほとんどやってもらった。おいしいところの切り身をもらってうれしい」と笑顔で話していた。
 ■虎杖浜の湿地で谷地坊主観察
 白老町虎杖浜で2日に開かれた「タクッペ~湿地と谷地坊主観察会」(アイヌ民族博物館主催)には、町内や伊達市、室蘭市、苫小牧市などから14人が参加。同博物館学芸課職員の永田純子さんと矢崎春菜さんが町道沿いに自生する野生植物などを紹介しながら、アイヌ文化との関わりについて分かりやすく説明した。
 湿地エリアではぬかるみに足を取られながらも参加者の多くが興味津々の様子で観察。室蘭市内の中学校で理科教師をしている星英男さん(57)は植物観察に関心があり、「マニアックなテーマが面白そう」と参加。「胆振地区では湿地そのものが減っており、谷地坊主があまり見られなくなった。今回は貴重なものを見られてよかった」と笑顔で話した。
 ■宝探しと海岸清掃に46人
 アイヌ語地名にまつわる場所で海岸清掃と芸術作品の素材集めを行う活動が1日、白老町虎杖浜地区で行われ、町内外から親子連れなど46人が参加した。アイヌ民族博物館が主催した企画展の連動イベント。町内在住の彫刻家国松希根太さんとのコラボで、「海の宝物」と称した海岸の漂着物を集め、来年1月14日に開くワークショップで宝船をかたどったオブジェを制作する。
 参加者は虎杖浜地区の海岸と、白老町虎杖浜にあるアイヌ伝承の洞穴アフンルパロ周辺の2カ所で作業を実施。白老町日の出の小川洋平さん(35)は親子5人で海岸の作業に参加。「普段は海に来る機会がほとんどなく、虎杖浜の海岸も初めて訪れた。子どもたちも喜んでおり、参加してよかった」と笑顔で話しながら、丁寧にごみを拾い集めていた。
http://www.tomamin.co.jp/20161043174


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松浦武四郎 「蝦夷屏風」公開 「北海道」の名付け親で探検家 著名人からの手紙など貼付 /三重

2016-10-05 | アイヌ民族関連
毎日新聞2016年10月4日 地方版
 「北海道」の名付け親で幕末から明治の探検家・松浦武四郎(1818〜88年)の幅広い交友を物語る著名人からの手紙や北海道を探検中の領収書を貼り付けた「蝦夷屏風(えぞびょうぶ)」=国重文=の公開展示が松阪市小野江町の松浦武四郎記念館で始まった。約2000万円をかけた2年がかりの修復作業でよみがえり、屏風の下貼りからは実家・松浦家の古文書3288枚も見つかった。幕末から明治維新にかけた松阪地方史を解明する資料として注目される。【橋本明】
 蝦夷屏風は1隻が高さ1・8メートル、幅3・メートルの六曲一双。表には嘉永から慶応年間の交流書簡と見られる明治維新の元勲・大久保利通や儒学者・富岡鉄斎のほか水戸、鹿児島藩士らから届いた手紙96点があり、武四郎が自ら書いた差出人の人物紹介も添えられている。
 裏側は武四郎が、蝦夷地を探索中に買った米、酒、ホタテ貝など多彩な領収書の他、アイヌ民族の少年たちが書いた習字など87点があり、武四郎の現地での生活を映し出す。
 屏風は、明治2(1869)年3月、武四郎が書簡類を実家のおい・佳介に送り、作らせた。後年、佳介が一部を巻物にして保存した時には「巻物では人に持っていかれる」などとたしなめており、この時の手紙も公開されている。
 下貼りは、松浦家の買い物や日記などの記録や豆腐の領収書、紀州和歌山藩とのやりとりの記録や、伊勢古市(現在の伊勢市)にあった芝居小屋の演目表も見つかっている。
 11月20日まで。入館料310円。問い合わせは、同記念館(0598・56・6847)。
〔三重版〕
http://mainichi.jp/articles/20161004/ddl/k24/040/346000c


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先住民族の権利保護 国連勧告に国が反論 石垣・豊見城の意見書引用

2016-10-05 | ウチナー・沖縄
琉球新報 2016年10月4日 11:15
 国連の人種差別撤廃委員会が2014年に、沖縄の人々を先住民族として権利を保護するよう勧告したことを受け、日本政府が今年8月、勧告の撤廃を求める豊見城、石垣両市議会の意見書を根拠に反論したことが分かった。沖縄における表現の自由の侵害を訴える追加報告書を国連機関に提出した反差別国際運動(IMADR)と沖縄国際人権法研究会は、政府に対し「自分たちに都合のいいところだけ引用している」などと批判している。
 沖縄における人種差別撤廃委員会の勧告は日本政府に報告書提出を義務付けていないが、政府はほかの勧告の反応とともに、8月18日に国連人権高等弁務官事務所に提出した。外務省人権人道課は2市議会の意見書可決を踏まえ、「事実関係として進展があるから(報告を)出す判断になった。沖縄にもいろいろな意見がある」と説明した。
 報告書は「『先住民族』と認識している人々はアイヌの人々以外には存在しない」という見解を示しつつ、豊見城市議会の「県民のほとんどが先住民族であるとの自己認識を持っておらず」(15年12月)、石垣市議会の「先住民族との指摘は当たらない」(16年6月)の文言を引用。「県出身者が『先住民族』であるとの認識が日本国内に広く存在するとは言えない」とし、「権利を全て等しく保障されている」と強調した。
 沖縄国際人権法研究会の島袋純琉球大教授は「先住民族かどうかの概念でなく、どれだけ沖縄の人権が侵害されているかが大きい」と指摘した上で、「国連が定めてきた先住民族の定義を押さえないと反論にならない」と批判。反差別国際運動の小松泰介氏は「国連の舞台で話題になり、くぎを刺そうとしたのではないか」と推測した。
 反差別国際運動などは9月27日、名護市辺野古や東村高江周辺の基地建設などにおける表現の自由に関する追加報告書を、国連のデービッド・ケイ特別報告者や関係機関にも送付した。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-369410.html


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マオリの生徒、白老などでアイヌ文化体感 「通じるもの感じた」

2016-10-05 | アイヌ民族関連
北海道新聞10/04 09:00、10/04 09:05 更新

アイヌ民族博物館で伝統的な歌と踊りを披露する先住民族マオリの生徒たち
 ニュージーランド(NZ)の先住民族マオリの生徒が1~4日に東胆振・日高地方に滞在し、アイヌ民族と交流している。生徒はNZロトルア市で、マオリ語だけで教育する小中高一貫校に通う12~15歳の13人。苫小牧市内のアイヌ文化伝承団体「苫小牧うぽぽ」が昨秋にNZを訪問した縁で初めて訪れ、生徒は地域に根付くアイヌ文化を体感した。
 一行は修学旅行で9月下旬から日本を訪れ、1日に道内入りした。同日夜は市内で開かれた歓迎セレモニーに参加し、2日は白老町のアイヌ民族博物館、3日は市内の小中学校と平取町二風谷を訪れた。
 アイヌ民族博物館では古式舞踊を見学し、生徒はマオリの伝統的な歌と踊りを披露した。アイヌ民族の若手職員と意見交換もし、生徒が「文化継承で最も力を入れている活動は何か」と質問。職員が「話者が減ったアイヌ語の復興に力を入れている」と答え、互いの状況を学んだ。
 ペラニコ・バードさん(15)は「互いに大変な歴史がある中、頑張る姿に自分たちと通じるものを感じた」と話した。
 苫小牧うぽぽの佐々木義春会長は「日本での先住民族への理解が広まるきっかけになれば。今後も交流を深めたい」と語った。
 マオリ語は1970年代に消滅の危機に陥ったが、効果的な学習法が確立され、政府が公用語に指定したこともあって復興した。土地の返還や補償など民族の権利回復も進んだ。同校のペム・バード校長は「言語の継承や権利回復には、政府と民族が共通認識を持つ必要がある」と話した。
 一行は4日も平取町内で交流し、5日に帰国する。(田鍋里奈)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/doo/1-0323157.html

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【日本の源流を訪ねて】 島義勇像(札幌市) 北の大地に生きる「佐賀の七賢人」

2016-10-05 | アイヌ民族関連
産経ニュース-2016.10.4 07:00

 佐賀藩士、島義勇(よしたけ)(1822~1874)は、幕末から明治時代にかけて、北海道の発展に尽力した。その先見性から、「佐賀の七賢人」の一人に数えられる。
 島は藩校の弘道館で学んだ。その後、安政3~4(1856~57)年、藩主の鍋島直正(閑叟(かんそう)、1815~1871)の命令によって、幕府による蝦夷地(北海道)と樺太の調査に同行した。
 江戸時代、佐賀藩は福岡藩とともに、長崎警備を担当した。それだけに藩主・直正は、西洋列強の脅威を肌身で感じていた。ロシアは樺太や蝦夷地への進出をうかがっており、島の派遣は、ロシアに対する備えの意味もあっただろう。
 このとき島は、アイヌの生活や自然の様子などをまとめた報告書『入北記』を著した。
 維新後、明治政府は蝦夷地開拓を重視した。
 明治2年、開拓使を設置し、初代長官には直正が就いた。島もその下で働く開拓使判官となった。
 直正は就任間もなく辞任したので、島は後継の開拓使長官、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)(1834~1912)と一緒に同年9月、函館に上陸した。
 広い北海道の開拓を本格的に進める目的で、道央に新たな拠点を建設することが決まっていた。
 島らは函館から札幌へ、道なき道を進んだ。島は「開拓三神」と称される大国魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遅神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の3柱のご神体を背負った。いずれも「国造り」に関連した神様だ。
 10月、銭函(現・小樽市)に開設された開拓使仮役所に着任した島は「札幌本府」の建設に着手した。
 真っ先に3柱の神々を祭る札幌神社=現・北海道神宮=を創建した。
 島は、北側を官庁街に、南側を民間地とした碁盤の目状の街並みを構想していた。それは古都・平安京を模した壮大な都市計画だった。
 極寒の中で、工事は困難を極めた。さらに大凶作で米価が高騰し、年間予算は、わずか3カ月で底を突く。
 増額を訴える島は、長官の東久世と対立し、3年1月に解任され、帰京を命じられた。
 東京に戻った島は、明治天皇の侍従を経て、5年に秋田県の初代権令(知事)となった。島はここでも八郎潟を干拓する大事業を構想した。だが、このプロジェクトも反発を招き、翌6年に退官を余儀なくされた。八郎潟の干拓開始は戦後の昭和31年まで待たねばならなかった。
 島は佐賀に帰った。
 新政府に不満を持つ旧藩士が結成した「憂国党」の党首に担がれた。征韓論をめぐる政争で新政府を追われた江藤新平(1834~1874)とともに7年、「佐賀の乱」を起こす。
 政府軍に敗れ、首謀者として斬首された。
 島は明治22年に大赦を、大正5年には従四位の遺贈を受け、公的に名誉を回復した。それでも賊軍の汚名を受けたことは重く、地元・佐賀であまり顧みられなくなった。
 一方、北海道では「開拓の父」として、慕われる。北海道神宮のほか、札幌市役所(札幌市中央区)にも銅像が立つ。昭和4年には円山公園(札幌市中央区)に顕彰碑「島判官紀功碑」が建立された。
 約150年前。島が雪の舞う丘から「他日五州第一都」(いつの日か世界一の都市になるだろう)と吟じた原野は、今や人口200万に迫る大都市に成長した。札幌市中心部は島の都市計画に従った形で発展を続けている。(九州総局 中村雅和)
 ■島義勇像
 北海道札幌市中央区宮ヶ丘474、北海道神宮境内。彫刻家の宮地寅彦氏(明治35~平成7年)が昭和49年、同神宮の明治天皇増祀(ぞうし)10周年記念事業の一環として制作した。札幌市営地下鉄東西線「円山公園」駅から徒歩15分。問い合わせは北海道神宮(電)011・611・0261。
http://www.sankei.com/region/news/161004/rgn1610040042-n1.html

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