北海道新聞 07/25 05:00
様似町幌満の幌満川河口に様似山道の東口がある。角張った硬い石が積み重なる沢を登り、尾根へ出て西へ。その後3度ほど沢を登り降りし、最難所の「ルランベツ(ルエランベツ=アイヌ語で『坂・川』=の通称)」の沢では急斜面に張られたロープを伝い歩いた。道幅1メートル弱。険阻というほどではないが、骨の折れる道程である。
アポイ岳(810メートル)山麓を東西に走る様似山道は延長約7キロ。江戸後期の1799年(寛政11年)、猿留(さるる)山道(えりも町)とともに江戸幕府が開いた蝦夷地(えぞち)初の官製道路だ。両山道の開削により、勇払(苫小牧)など道央と、厚岸、根室など道東を荒天時や冬季に行き来する困難さは緩和されたのだった。
■「第一の難所」
それより前は、後年「日高耶馬渓(やばけい)」と名付けられた断崖絶壁の海岸線が通り道。箱館奉行・羽太正養(はぶとまさやす)の公務記録「休明光記(きゅうめいこうき)」は、ここを「蝦夷地第一の難所」とし、通行の困難さを伝える。「縄を下げ梯子(はしご)をかけて渉(わた)り、又(また)は巌(いわお)の下をくぐり、或(あるい)は浪の打寄る隙を見て飛び越ゆる所あり」
旅人が「念仏を唱えつつ登り降りした」とされる絶壁を見下ろす場所が、山道から少し外れた崖の上にある。住民団体「アポイ岳ファンクラブ」事務局長の田村裕之さん(50)の案内でそこに立つ。奇岩「鵜(う)の鳥岩」が屹立(きつりつ)する海面は100メートルも下にある。
山道はこの難所を山側へ迂回(うかい)する。開削は北方防備の強化と蝦夷地開拓が目的だった。1789年、和人の横暴に抗して国後島と対岸のアイヌ民族が蜂起(クナシリ・メナシの戦い)。ラッコの毛皮などを求め南下するロシアがアイヌ民族を懐柔することを恐れた江戸幕府は1798年、東蝦夷地へ巡察隊を送った。
そこに加わった幕吏の近藤重蔵や最上徳内が、難所をかわす山道の必要性を説いた。「ロシアの動向などの情報を迅速に伝え、悪天候でも兵を送り込めるルートの確保を狙った」と様似郷土館の高橋美鈴学芸員(34)。細い山道は、北からの脅威に対する幕府の強い危機感の表れと言える。
一帯の地形は約1300万年前の造山運動でできた。地殻を構成する東側と西側のプレート(岩盤)が衝突し、東側の境界面がめくれ上がって日高山脈となった。アポイ岳はその南端付近にある。地下深部の硬い岩石が突き上げられて急峻(きゅうしゅん)な地形となり、波浪に侵食され絶壁となった。
■プレートの境
様似山道は、このダイナミックな地球の動きを実感できる道でもある。行路の途中で、足元の石の色が暗色から明色に変わるのだ。「東西のプレートの境で色が変わると考えられています」と田村さん。知らぬ間にその境をまたいでいた。
山道沿いに明治初期、「原田宿」という宿屋があり、今も礎石が残る。宿の主の末裔(まつえい)で様似町の画商、原田恭宏さん(84)は1980年、山道の調査に加わり、宿の跡地を確かめた。「山道の存在を知る町民は少なく、原田宿も知られていなかった」と振り返る。
調査を主導したのは様似町郷土史研究会。79年から調査を重ねて山道の全容を解明し、ササ刈りなど整備に取り組んだ。取り組みは官民に継承され、今は「アポイ岳ジオパーク」のフットパス(歩行用の通路)として維持されている。住民らの努力に感謝しつつ、5時間かけて同町冬島の山道西口にたどり着いた。(中川大介)
<ことば>様似山道 江戸幕府が1799年に東蝦夷地を松前藩から取り上げ、直轄領化した上で1年間の突貫工事で完成させた。3年後に南部藩士が補修。探検家の松浦武四郎や測量家の伊能忠敬も通ったが、明治期以降、海岸に道路が敷かれて廃れた。1985年に様似町が文化財に指定。一部は2018年に国史跡に指定され、19年には猿留山道とともに文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた。原田宿は1873年(明治6年)から12年間、淡路島から渡道した原田安太郎が営んだ。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/570639
様似町幌満の幌満川河口に様似山道の東口がある。角張った硬い石が積み重なる沢を登り、尾根へ出て西へ。その後3度ほど沢を登り降りし、最難所の「ルランベツ(ルエランベツ=アイヌ語で『坂・川』=の通称)」の沢では急斜面に張られたロープを伝い歩いた。道幅1メートル弱。険阻というほどではないが、骨の折れる道程である。
アポイ岳(810メートル)山麓を東西に走る様似山道は延長約7キロ。江戸後期の1799年(寛政11年)、猿留(さるる)山道(えりも町)とともに江戸幕府が開いた蝦夷地(えぞち)初の官製道路だ。両山道の開削により、勇払(苫小牧)など道央と、厚岸、根室など道東を荒天時や冬季に行き来する困難さは緩和されたのだった。
■「第一の難所」
それより前は、後年「日高耶馬渓(やばけい)」と名付けられた断崖絶壁の海岸線が通り道。箱館奉行・羽太正養(はぶとまさやす)の公務記録「休明光記(きゅうめいこうき)」は、ここを「蝦夷地第一の難所」とし、通行の困難さを伝える。「縄を下げ梯子(はしご)をかけて渉(わた)り、又(また)は巌(いわお)の下をくぐり、或(あるい)は浪の打寄る隙を見て飛び越ゆる所あり」
旅人が「念仏を唱えつつ登り降りした」とされる絶壁を見下ろす場所が、山道から少し外れた崖の上にある。住民団体「アポイ岳ファンクラブ」事務局長の田村裕之さん(50)の案内でそこに立つ。奇岩「鵜(う)の鳥岩」が屹立(きつりつ)する海面は100メートルも下にある。
山道はこの難所を山側へ迂回(うかい)する。開削は北方防備の強化と蝦夷地開拓が目的だった。1789年、和人の横暴に抗して国後島と対岸のアイヌ民族が蜂起(クナシリ・メナシの戦い)。ラッコの毛皮などを求め南下するロシアがアイヌ民族を懐柔することを恐れた江戸幕府は1798年、東蝦夷地へ巡察隊を送った。
そこに加わった幕吏の近藤重蔵や最上徳内が、難所をかわす山道の必要性を説いた。「ロシアの動向などの情報を迅速に伝え、悪天候でも兵を送り込めるルートの確保を狙った」と様似郷土館の高橋美鈴学芸員(34)。細い山道は、北からの脅威に対する幕府の強い危機感の表れと言える。
一帯の地形は約1300万年前の造山運動でできた。地殻を構成する東側と西側のプレート(岩盤)が衝突し、東側の境界面がめくれ上がって日高山脈となった。アポイ岳はその南端付近にある。地下深部の硬い岩石が突き上げられて急峻(きゅうしゅん)な地形となり、波浪に侵食され絶壁となった。
■プレートの境
様似山道は、このダイナミックな地球の動きを実感できる道でもある。行路の途中で、足元の石の色が暗色から明色に変わるのだ。「東西のプレートの境で色が変わると考えられています」と田村さん。知らぬ間にその境をまたいでいた。
山道沿いに明治初期、「原田宿」という宿屋があり、今も礎石が残る。宿の主の末裔(まつえい)で様似町の画商、原田恭宏さん(84)は1980年、山道の調査に加わり、宿の跡地を確かめた。「山道の存在を知る町民は少なく、原田宿も知られていなかった」と振り返る。
調査を主導したのは様似町郷土史研究会。79年から調査を重ねて山道の全容を解明し、ササ刈りなど整備に取り組んだ。取り組みは官民に継承され、今は「アポイ岳ジオパーク」のフットパス(歩行用の通路)として維持されている。住民らの努力に感謝しつつ、5時間かけて同町冬島の山道西口にたどり着いた。(中川大介)
<ことば>様似山道 江戸幕府が1799年に東蝦夷地を松前藩から取り上げ、直轄領化した上で1年間の突貫工事で完成させた。3年後に南部藩士が補修。探検家の松浦武四郎や測量家の伊能忠敬も通ったが、明治期以降、海岸に道路が敷かれて廃れた。1985年に様似町が文化財に指定。一部は2018年に国史跡に指定され、19年には猿留山道とともに文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた。原田宿は1873年(明治6年)から12年間、淡路島から渡道した原田安太郎が営んだ。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/570639