文春オンライン 1/16(木) 17:00配信
スター女優と若手舞台演出家の亡命
いまの日本では「越境」「亡命」といっても全くピンとこないだろう。島国の日本に陸地の国境はない。しかし、75年以上前には、傀儡国家「満州国」と他国との境以外にも国境が存在した。
日露戦争の結果、北緯50度線以南の半分が日本領となった「樺太」(現サハリン)で、北半分を占めるソ連領との境。そこを雪の正月に越えて行った男女がいた。それも、女は当時のトップスター・岡田嘉子。といっても、いまの若い人たちにはピンとこないだろうが、映画や舞台で活躍し、一時は人気ナンバーワンになった女優、男は若手舞台演出家・杉本良吉だった。共産主義国家ソ連への2人の亡命は当時、大きな話題と反響を呼んだ。
しかし、ソ連ではスターリンによるとされる粛清の嵐が吹き荒れており、越境・亡命劇の結末は、本人たちが夢見たものとは全く違っていた。詳細はいまも現代史の謎の1つとして残されている。前代未聞のスター女優の越境、亡命とは一体どんなものだったのか。資料や当時の新聞記事を基に見てみよう。
「岡田嘉子謎の行方 杉本良吉氏と同行 樺太で消える 奇怪・遭難か情死か」(東京朝日)、「風吹の樺太国境に 岡田嘉子さん失踪 新協の演出家杉本良吉君と 愛の雪見か心中行?」(読売)……。1938年1月5日付朝刊各紙は一斉にこう報じた。前年の1937年12月、日中全面戦争で日本軍が中国国民党政府の首都南京を陥落させ、お祭り騒ぎで正月を迎えた。そんな中でのニュースに多くの国民は驚いただろう。
前年の1937年12月、日中全面戦争で日本軍が中国国民党政府の首都南京を陥落させ、お祭り騒ぎで正月を迎えた。そんな中でのニュースに多くの国民は驚いただろう。
当時でも破天荒すぎた「亡命」
メディアも2人の行動の真意を測りかねたようだ。当時の地元紙「樺太日日新聞」は5日付朝刊で「熱愛の旅を樺太へ 岡田嘉子恋の逃避行 新春に投ず桃色トビツク(トピック)」「朔北の異風景に まあ素敵だわ」と、ピント外れの報じ方。有名人の越境、亡命が当時でもいかに破天荒な出来事だったかが分かる。
1月6日付(実際は5日)夕刊の続報では「謎の杉本と嘉子・果然入露 拳銃で橇屋を脅迫 雪を蹴って越境 夕闇の彼方に姿消ゆ」(東京朝日)、「赤露と通謀か 亜港領事館に逮捕厳命」(読売)などと、越境の模様を詳しく報道。東京朝日の同じ紙面の下部には「戦捷の新春に咲く!」という映画雑誌の広告や、各レコード会社が発売した新曲の広告が。「露営の歌」「上海だより」「塹壕夜曲」「兵隊さん節」……。各紙とも、2人が自分たちの意思で越境した可能性を打ち出したが、朝日は6日付朝刊で「謎解けぬ雪の国境 思想上の悩みか 邪恋の清算か」と、まだ迷っている。
その後の動きを新聞報道で見ると、日本の外務省が「北樺太」の首都アレキサンドロフスク駐在の総領事を通じてソ連側に2人の捜索と引き渡し交渉することに(8日付夕刊)。総領事からの報告で、2人が国境のソ連監視所に勾留され、生存していることが判明(9日付朝刊)。2人はアレキサンドロフスクへ護送され、ソ連当局の取り調べを受けていることが分かった(15日付朝刊)。
誰もが驚く越境劇に周囲の動揺は大きかった。
ぷっつり途絶えた2人の消息
小山内薫らの築地小劇場の流れを汲む劇団で杉本が所属していた新協劇団は、それまでもメンバーの多くが検挙されるなど、弾圧を受けており、「劇団の規約を乱し、劇団の方針に関しての社会的疑惑を引き起こしたことについては断固として糾弾せざるを得ない。行動は劇団とは無関係」として除名処分を決定。嘉子が所属した井上正夫一座は除名せず「できるものなら温かく迎えたい」との態度で好対照を見せた。
岡田嘉子の前夫・竹内良一の実妹で嘉子の親友でもあった竹内京子は、事前に相談を受けていたが、警視庁の調べに「ただ雪を見たいからとだけ言っていました」と答えた。「婦人公論」は1938年3月号で良吉の妻智恵子の手記「杉本良吉と私」を、4月号では嘉子が10代で生んだ博の手記「子を捨てた母へ」を掲載。話題を集めた。
越境、亡命から8カ月余りたった8月30日付東京日日には「フェイクニュース」が。同年7~8月に起きた日ソ間の国境紛争「張鼓峰事件」の停戦協定締結後の情報として、岡田嘉子がソ連領で共産学校の日本語教師をしているが、顔色も青ざめ頬の肉も落ちて、かつて舞台やスクリーンでファンを騒がせた晴れやかな面影はおくびにも見えないといわれる。一方、杉本はハバロフスクで健在……。このあたりで2人の消息はぷっつり途絶える。
人気投票でナンバーワンのトップスターに
キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集 女優編」によれば、岡田嘉子は広島市生まれ。地方紙記者だった父の勤務の都合で各地で暮らしたが、元々女優志望で、舞台を経て日活の映画女優に。オランダ人の血を引くとされるエキゾチックな美貌と妖艶な雰囲気を生かし、村田実監督の「街の手品師」などに出演して人気を集め、1925年の映画女優人気投票でナンバーワンになるなど、トップスターとなった。
1927年、「椿姫」に出演したが、村田監督の指導に納得がいかないなどの悩みから、相手役の外松男爵家の御曹司・竹内良一と撮影をすっぽかして逃避行。日活を解雇された。しかし、華族の資格を剥奪された竹内と結婚。一座を作って舞台公演を続けた後、松竹蒲田に入社した。小津安二郎監督の「また逢ふ日まで」「東京の宿」などで好演を見せたが、井上正夫一座で舞台女優に戻る。商業主義に走りがちな映画よりも舞台に自分の場所を見いだしていたようだ。
「私たちの恋には明日がないのです」越境を決意
そこで知り合ったのが演出助手の杉本良吉だった。本名・吉田好正。ロシア語に堪能で、早稲田大を中退して左翼の劇団運動に参加し、日本共産党に入党したが、1933年に治安維持法違反で逮捕され、執行猶予中だった。2人は演技指導を通じて親しくなり、愛し合うように。しかし、嘉子には別居中だが竹内という夫があり、杉本にも、かつての美人ダンサーで当時は結核で闘病中の妻がいた。
嘉子が1973年に出版した自伝「悔いなき命を」には、2人が越境を決意した時のことがこう書かれている。
「私たち二人は、もうどうすることもできないところまで進んでいました。私たちの恋が世間から、周囲の人たちから祝福されないことはよく分かっています。私たちの恋には明日がないのです。二人ともそれはよく分かっているのです。それだけにまた激しく燃え上がる愛情なのです」。
1937年には日中全面戦争が勃発。軍事色が濃くなる中で、非合法共産党の活動や、それにつながるプロレタリア文化活動への弾圧が厳しくなっていた。「彼(杉本)が一番恐れたのは赤紙でした。召集されれば、思想犯の彼が最悪の場所へ送られるのは明らかです」「私たち二人は刻々と周囲を取り巻いてくる暗黒を見つめて、ともすれば黙りがちになるのでした」と同書は書いている。そんな中で嘉子はある言葉を漏らす。
「ねえ、いっそ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」
その時、「彼はハッとしたように私を見つめました」。
共産主義者にとって“理想の地”だったモスクワ
実は杉本は以前、国外脱出を計画したことがあった。平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」によれば、1932年、党員仲間と北海道・小樽から小型発動機船でソ連に密航することを考えたが、仲介者が信用できず、船に不安があったことから断念した。
このころの共産党員や支援者にとって、国際共産主義の本拠「コミンテルン」のあるソビエト・モスクワは“理想の地”であり、スタニスラフスキーの弟子メイエルホリドが指導する最先端の演劇運動は左翼演劇人のあこがれだった。現に華族出身で「赤い伯爵」と呼ばれた杉本が師事した演出家・土方与志と、同じく佐野碩がモスクワにいると杉本は思っていた(実際は2人とも追放されていた)。
「海を越えて行くことは、彼が既に失敗しています。陸続きといえば、満州か樺太しかありません。執行猶予の身である彼が満州へ出ることはできない。とすれば、道は一つ、樺太の国境を越えるだけです」(「悔いなき命を」)。
嘉子にも、メイエルホリドの演技指導を受けて「もっといい女優に」という願望があったという。「このまま日本にいても……」。閉塞状況にあった2人が決断するのにそれほどの時間はかからなかったようだ。
「生涯に一度は樺太に行ってみたいといつもあこがれていました」
そこから越境に至るまでは、自伝「悔いなき命を」と、当時「時局情報特派員」の加田顕治が現地で取材し、「事件」から3週間後に出版した小冊子「岡田嘉子・越境事件の真相」ではかなりの違いがある。
「悔いなき命を」によれば、2人は1937年12月26日、舞台の千秋楽を終え、翌27日、上野駅発の夜行列車で青森へ。「青森から連絡船で函館へ着き、旭川まで。その夜は旭川泊まり。どうにも隠しようのない私の顔です。アイヌの芝居をやるので、その生活を研究に来た、と宿の人に言った手前、次の日は早く起きて、アイヌの家を訪れました。午後出発、翌日朝、海を越えて南樺太へ。その夜は豊原駅前の旅館で一泊。翌日また汽車に乗って、夕刻敷香へ到着。山形屋旅館へ落ち着きました」(「悔いなき命を」)。
「岡田嘉子・越境事件の真相」では「二人を乗せた列車が国境の町敷香駅に到着したのが三十一日夜九時」としている。宿の主人に目的を聞かれた嘉子は「私の父はずっと昔、樺太民友新聞に勤務し、文章生活をしていたことがありますし、生涯に一度は樺太に行ってみたいといつもあこがれていました」と答えた。
2人が越境越えを果たした瞬間
以下は「悔いなき命を」に従う。
「それとなく国境のことを聞くと、冬は雪で道が閉ざされ、警備隊詰所に数人の隊員が雪に埋もれて寂しく暮らしているだけ、とのことです。それは気の毒だから、その人たちを慰問に行こうじゃないか、と言い出しますと、宿の人も喜んで……」。
翌日、警察署長宅に行くと、元日の祝宴中で大歓待を受け、署長がソリを出してくれることになった。「生まれて初めて乗るホロもない馬ゾリ。四辺は縹緲とした雪野原」「国境警備隊半田詰所へ着いたのは午後二時を回っていたでしょうか。慰問の言葉もそこそこに、私は国境見物を願い出ました」。信用した隊員は自分たちはスキーで、銃や連絡用電話機を嘉子たちが乗った馬ゾリに載せた。
「暗くなっては国境が見えないから早く早くと馭者をせき立てます」「『ここだ』と言われて、馬ゾリが止まるやいなや、二人は手を取り合って駈け出しました」「雪との闘いで邪魔になった手提げカバンを投げ捨て、暑くなったので、首に巻いていたセーターを投げ捨てた時、杉本が『国境を越えたぞ!』と叫び、首から吊るしていた呼び笛を吹きました。それと同時に、二人の若い兵士が行途に立ちふさがりました」と嘉子は書いている。
「岡田嘉子・境事件の真相」は「国境警備隊半田詰所」を「半田警部補派出所」としており、この方が正しいようだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200116-00025217-bunshun-soci
スター女優と若手舞台演出家の亡命
いまの日本では「越境」「亡命」といっても全くピンとこないだろう。島国の日本に陸地の国境はない。しかし、75年以上前には、傀儡国家「満州国」と他国との境以外にも国境が存在した。
日露戦争の結果、北緯50度線以南の半分が日本領となった「樺太」(現サハリン)で、北半分を占めるソ連領との境。そこを雪の正月に越えて行った男女がいた。それも、女は当時のトップスター・岡田嘉子。といっても、いまの若い人たちにはピンとこないだろうが、映画や舞台で活躍し、一時は人気ナンバーワンになった女優、男は若手舞台演出家・杉本良吉だった。共産主義国家ソ連への2人の亡命は当時、大きな話題と反響を呼んだ。
しかし、ソ連ではスターリンによるとされる粛清の嵐が吹き荒れており、越境・亡命劇の結末は、本人たちが夢見たものとは全く違っていた。詳細はいまも現代史の謎の1つとして残されている。前代未聞のスター女優の越境、亡命とは一体どんなものだったのか。資料や当時の新聞記事を基に見てみよう。
「岡田嘉子謎の行方 杉本良吉氏と同行 樺太で消える 奇怪・遭難か情死か」(東京朝日)、「風吹の樺太国境に 岡田嘉子さん失踪 新協の演出家杉本良吉君と 愛の雪見か心中行?」(読売)……。1938年1月5日付朝刊各紙は一斉にこう報じた。前年の1937年12月、日中全面戦争で日本軍が中国国民党政府の首都南京を陥落させ、お祭り騒ぎで正月を迎えた。そんな中でのニュースに多くの国民は驚いただろう。
前年の1937年12月、日中全面戦争で日本軍が中国国民党政府の首都南京を陥落させ、お祭り騒ぎで正月を迎えた。そんな中でのニュースに多くの国民は驚いただろう。
当時でも破天荒すぎた「亡命」
メディアも2人の行動の真意を測りかねたようだ。当時の地元紙「樺太日日新聞」は5日付朝刊で「熱愛の旅を樺太へ 岡田嘉子恋の逃避行 新春に投ず桃色トビツク(トピック)」「朔北の異風景に まあ素敵だわ」と、ピント外れの報じ方。有名人の越境、亡命が当時でもいかに破天荒な出来事だったかが分かる。
1月6日付(実際は5日)夕刊の続報では「謎の杉本と嘉子・果然入露 拳銃で橇屋を脅迫 雪を蹴って越境 夕闇の彼方に姿消ゆ」(東京朝日)、「赤露と通謀か 亜港領事館に逮捕厳命」(読売)などと、越境の模様を詳しく報道。東京朝日の同じ紙面の下部には「戦捷の新春に咲く!」という映画雑誌の広告や、各レコード会社が発売した新曲の広告が。「露営の歌」「上海だより」「塹壕夜曲」「兵隊さん節」……。各紙とも、2人が自分たちの意思で越境した可能性を打ち出したが、朝日は6日付朝刊で「謎解けぬ雪の国境 思想上の悩みか 邪恋の清算か」と、まだ迷っている。
その後の動きを新聞報道で見ると、日本の外務省が「北樺太」の首都アレキサンドロフスク駐在の総領事を通じてソ連側に2人の捜索と引き渡し交渉することに(8日付夕刊)。総領事からの報告で、2人が国境のソ連監視所に勾留され、生存していることが判明(9日付朝刊)。2人はアレキサンドロフスクへ護送され、ソ連当局の取り調べを受けていることが分かった(15日付朝刊)。
誰もが驚く越境劇に周囲の動揺は大きかった。
ぷっつり途絶えた2人の消息
小山内薫らの築地小劇場の流れを汲む劇団で杉本が所属していた新協劇団は、それまでもメンバーの多くが検挙されるなど、弾圧を受けており、「劇団の規約を乱し、劇団の方針に関しての社会的疑惑を引き起こしたことについては断固として糾弾せざるを得ない。行動は劇団とは無関係」として除名処分を決定。嘉子が所属した井上正夫一座は除名せず「できるものなら温かく迎えたい」との態度で好対照を見せた。
岡田嘉子の前夫・竹内良一の実妹で嘉子の親友でもあった竹内京子は、事前に相談を受けていたが、警視庁の調べに「ただ雪を見たいからとだけ言っていました」と答えた。「婦人公論」は1938年3月号で良吉の妻智恵子の手記「杉本良吉と私」を、4月号では嘉子が10代で生んだ博の手記「子を捨てた母へ」を掲載。話題を集めた。
越境、亡命から8カ月余りたった8月30日付東京日日には「フェイクニュース」が。同年7~8月に起きた日ソ間の国境紛争「張鼓峰事件」の停戦協定締結後の情報として、岡田嘉子がソ連領で共産学校の日本語教師をしているが、顔色も青ざめ頬の肉も落ちて、かつて舞台やスクリーンでファンを騒がせた晴れやかな面影はおくびにも見えないといわれる。一方、杉本はハバロフスクで健在……。このあたりで2人の消息はぷっつり途絶える。
人気投票でナンバーワンのトップスターに
キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集 女優編」によれば、岡田嘉子は広島市生まれ。地方紙記者だった父の勤務の都合で各地で暮らしたが、元々女優志望で、舞台を経て日活の映画女優に。オランダ人の血を引くとされるエキゾチックな美貌と妖艶な雰囲気を生かし、村田実監督の「街の手品師」などに出演して人気を集め、1925年の映画女優人気投票でナンバーワンになるなど、トップスターとなった。
1927年、「椿姫」に出演したが、村田監督の指導に納得がいかないなどの悩みから、相手役の外松男爵家の御曹司・竹内良一と撮影をすっぽかして逃避行。日活を解雇された。しかし、華族の資格を剥奪された竹内と結婚。一座を作って舞台公演を続けた後、松竹蒲田に入社した。小津安二郎監督の「また逢ふ日まで」「東京の宿」などで好演を見せたが、井上正夫一座で舞台女優に戻る。商業主義に走りがちな映画よりも舞台に自分の場所を見いだしていたようだ。
「私たちの恋には明日がないのです」越境を決意
そこで知り合ったのが演出助手の杉本良吉だった。本名・吉田好正。ロシア語に堪能で、早稲田大を中退して左翼の劇団運動に参加し、日本共産党に入党したが、1933年に治安維持法違反で逮捕され、執行猶予中だった。2人は演技指導を通じて親しくなり、愛し合うように。しかし、嘉子には別居中だが竹内という夫があり、杉本にも、かつての美人ダンサーで当時は結核で闘病中の妻がいた。
嘉子が1973年に出版した自伝「悔いなき命を」には、2人が越境を決意した時のことがこう書かれている。
「私たち二人は、もうどうすることもできないところまで進んでいました。私たちの恋が世間から、周囲の人たちから祝福されないことはよく分かっています。私たちの恋には明日がないのです。二人ともそれはよく分かっているのです。それだけにまた激しく燃え上がる愛情なのです」。
1937年には日中全面戦争が勃発。軍事色が濃くなる中で、非合法共産党の活動や、それにつながるプロレタリア文化活動への弾圧が厳しくなっていた。「彼(杉本)が一番恐れたのは赤紙でした。召集されれば、思想犯の彼が最悪の場所へ送られるのは明らかです」「私たち二人は刻々と周囲を取り巻いてくる暗黒を見つめて、ともすれば黙りがちになるのでした」と同書は書いている。そんな中で嘉子はある言葉を漏らす。
「ねえ、いっそ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」
その時、「彼はハッとしたように私を見つめました」。
共産主義者にとって“理想の地”だったモスクワ
実は杉本は以前、国外脱出を計画したことがあった。平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」によれば、1932年、党員仲間と北海道・小樽から小型発動機船でソ連に密航することを考えたが、仲介者が信用できず、船に不安があったことから断念した。
このころの共産党員や支援者にとって、国際共産主義の本拠「コミンテルン」のあるソビエト・モスクワは“理想の地”であり、スタニスラフスキーの弟子メイエルホリドが指導する最先端の演劇運動は左翼演劇人のあこがれだった。現に華族出身で「赤い伯爵」と呼ばれた杉本が師事した演出家・土方与志と、同じく佐野碩がモスクワにいると杉本は思っていた(実際は2人とも追放されていた)。
「海を越えて行くことは、彼が既に失敗しています。陸続きといえば、満州か樺太しかありません。執行猶予の身である彼が満州へ出ることはできない。とすれば、道は一つ、樺太の国境を越えるだけです」(「悔いなき命を」)。
嘉子にも、メイエルホリドの演技指導を受けて「もっといい女優に」という願望があったという。「このまま日本にいても……」。閉塞状況にあった2人が決断するのにそれほどの時間はかからなかったようだ。
「生涯に一度は樺太に行ってみたいといつもあこがれていました」
そこから越境に至るまでは、自伝「悔いなき命を」と、当時「時局情報特派員」の加田顕治が現地で取材し、「事件」から3週間後に出版した小冊子「岡田嘉子・越境事件の真相」ではかなりの違いがある。
「悔いなき命を」によれば、2人は1937年12月26日、舞台の千秋楽を終え、翌27日、上野駅発の夜行列車で青森へ。「青森から連絡船で函館へ着き、旭川まで。その夜は旭川泊まり。どうにも隠しようのない私の顔です。アイヌの芝居をやるので、その生活を研究に来た、と宿の人に言った手前、次の日は早く起きて、アイヌの家を訪れました。午後出発、翌日朝、海を越えて南樺太へ。その夜は豊原駅前の旅館で一泊。翌日また汽車に乗って、夕刻敷香へ到着。山形屋旅館へ落ち着きました」(「悔いなき命を」)。
「岡田嘉子・越境事件の真相」では「二人を乗せた列車が国境の町敷香駅に到着したのが三十一日夜九時」としている。宿の主人に目的を聞かれた嘉子は「私の父はずっと昔、樺太民友新聞に勤務し、文章生活をしていたことがありますし、生涯に一度は樺太に行ってみたいといつもあこがれていました」と答えた。
2人が越境越えを果たした瞬間
以下は「悔いなき命を」に従う。
「それとなく国境のことを聞くと、冬は雪で道が閉ざされ、警備隊詰所に数人の隊員が雪に埋もれて寂しく暮らしているだけ、とのことです。それは気の毒だから、その人たちを慰問に行こうじゃないか、と言い出しますと、宿の人も喜んで……」。
翌日、警察署長宅に行くと、元日の祝宴中で大歓待を受け、署長がソリを出してくれることになった。「生まれて初めて乗るホロもない馬ゾリ。四辺は縹緲とした雪野原」「国境警備隊半田詰所へ着いたのは午後二時を回っていたでしょうか。慰問の言葉もそこそこに、私は国境見物を願い出ました」。信用した隊員は自分たちはスキーで、銃や連絡用電話機を嘉子たちが乗った馬ゾリに載せた。
「暗くなっては国境が見えないから早く早くと馭者をせき立てます」「『ここだ』と言われて、馬ゾリが止まるやいなや、二人は手を取り合って駈け出しました」「雪との闘いで邪魔になった手提げカバンを投げ捨て、暑くなったので、首に巻いていたセーターを投げ捨てた時、杉本が『国境を越えたぞ!』と叫び、首から吊るしていた呼び笛を吹きました。それと同時に、二人の若い兵士が行途に立ちふさがりました」と嘉子は書いている。
「岡田嘉子・境事件の真相」は「国境警備隊半田詰所」を「半田警部補派出所」としており、この方が正しいようだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200116-00025217-bunshun-soci