ニューズウィーク 2025年2月7日(金)15時54分
レベッカ・オニオン(スレート誌記者)

お尋ね者のサラは息子と西部へ JUSTIN LUBIN/NETFLIX
<「白人開拓者vs先住民」の構図がフィーチャーされがちな西部開拓物語とは一味違う。宗教対立の視点を取り入れた暴力描写たっぷりのNetflix西部劇──(ネタバレなしレビュー)>
ネットフリックスのドラマ『アメリカ、夜明けの刻(とき)(American Primeval)』は暗いムードの西部劇だ。
南北戦争前の時代、現在のユタ州とワイオミング州南部に当たる地域で起きた抗争を描く全6話の本作は、映画『レヴェナント:蘇えりし者(The Revenant)』(2015年)で知られる脚本家マーク・L・スミス(Mark L. Smith)が、クリエーターと脚本を手がけている。
新旧の多くの「西部もの」と同様、『夜明けの刻』は流血と銃と死の連続だ。制作陣が目指したのは、厳しく無慈悲な世界をつくり出すこと。
音響効果担当者が米メディアで語ったところでは、効果音から鳥の鳴き声を削除するよう、監督のピーター・バーグに指示されたほどだという。
ネットフリックスの宣伝資料によれば、このドラマが数ある西部ものとひと味違うのは、あることを教えてくれるから。米開拓時代の西部は混乱の極みだった、と。
過剰なほど盛りだくさんのストーリーは、1857~58年に末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)信者と米政府軍の間で発生したユタ戦争当時の出来事に、おおまかに基づいている。
主人公の1人で、ベティ・ギルピン(Betty Gilpin)が演じる堅苦しい雰囲気の女性サラは息子(プレストン・モタ)を連れて西部へ旅している(この息子が手にしている小説が、同じく19世紀の厳しい時代を生き抜こうとする人々を描く『デイヴィッド・コパフィールド(David Copperfield)』なのは気の利いた演出だ)。
テイラー・キッチュ(Taylor Kitsch)扮するアイザックは渋々ながら、サラ親子の道案内を務めることになる。この3人に先住民族ショショーニの少女が加わった一行の後を、実はお尋ね者であるサラの首を狙う賞金稼ぎが追っている。
過酷な旅をする4人の疑似家族の物語だけでも、作品として十分だと感じるかもしれない。だが本作には、さらに多くの人物が登場し、その誰もが大きなものを求めている。
モルモン教徒の開拓者ジェイコブ・プラットが追い求めているのは、暴力的な事件で生き別れになった妻エービシだ。モルモン教の指導者ブリガム・ヤングは教会の自立を守るため、実在の罠猟師ジム・ブリジャーの交易基地の購入を望み、論争する。
理想主義者の政府軍大尉は暴力の拡大を防げずに絶望し、ショショーニの戦士レッド・フェザーは、部族長で平和を希求する母親と対立する。
奇妙なことに、さまざまな暴力が数多く描かれるにもかかわらず、マウンテンメドウの虐殺の描写は史実と比べて控えめだ。この事件は本作の主要な出来事のきっかけになり、歴史家によれば、ユタ戦争の犠牲者の大部分を生み出した惨事だったのだが......。
実際の事件の経緯はこうだ。
1857年9月上旬、主にアーカンソー出身の約40世帯から成るベイカー・ファンチャー開拓団がカリフォルニアを目指す途中、当時のユタ準州で先住民を装ったモルモン教徒の民兵団(と、彼らに勧誘された先住民族パイユート)に攻撃され食料や水が不足する籠城状態に追い詰められた。
虐殺が起きたのは9月11日だ。少人数のモルモン教徒が白旗を掲げて開拓団の野営地に近づき、和解策として所有品を置いていくなら、先住民の攻撃を受けない場所まで案内すると申し出た。
開拓団は申し出に応じて移動したところで皆殺しにされ、6歳以下の子供17人だけが死を免れた。
マウンテンメドウの虐殺とその影響は、よりじっくり描くのに適したテーマのはずだ。だが事件をめぐる政治的事情を考えると、そうした選択はリスクが大きい。それに、あまりに凄惨な虐殺の模様は誰も見たくないだろう。
この難題を解決するため、バーグとスミスは虐殺の暴力を薄めて伸ばし、物語のあちこちに拡散している。その結果、どこもかしこも暴力だらけに思えてくる。
ドラマでは、虐殺は数日間の籠城の後ではなく、おしゃべりをしている開拓団の女性の額に突き刺さる矢という形で、突然始まる。確かに、大勢が死ぬし、印象は強烈だ。
だが虐殺現場を逃れたサラの視点から事件を語っているため、その描写は長く続かない。7歳以上の子供が殺される場面を目にすることもない。
虐殺を控えめに描いた理由をスミスはネットフリックスの宣伝資料で示唆している。
「攻撃の両側面を示したかった。(モルモン教徒が関わっていたイリノイ州民兵の)ノーブー軍団とモルモン民兵団が引き起こしたのは事実だが、彼らが(ほかの白人開拓者を)脅威と見なしていたことを理解しなければならない」
ドラマでは、モルモン教徒への暴力事件を報じる見出しが映し出され、彼らの一夫多妻制を批判して殺害予告をする開拓者らとの対立もしばしば描かれる。
ベイカー・ファンチャー開拓団に、少数のモルモン教徒を加える脚色も行っている。その代表が、思いやりのあるプラット夫妻だ。虐殺事件による2人の別離とその後の再会は、物語の大きな要素になっている。
否めない「二番煎じ」感
よりよい作品のために、歴史を圧縮して再結合する手法に問題はない。白人開拓者と先住民の戦いという構図に平板化されがちな西部開拓時代の物語に、宗教的対立を組み込んだのは評価すべきことだ。
だが『夜明けの刻』はひたすら過酷で、ユーモアのかけらも(ジム・ブリジャーのせりふ以外には)見当たらない。
ここでは、暴力は浮遊する疫病で、各集団を次々に襲う無作為の苦難であり、人間が自らの意思で選択して起こす出来事ではなく、制御不能で不可避な存在になっている。
ドラマ作品にはそれなりの要求があり、『イエローストーン(Yellowstone)』などのテイラー・シェリダン(Taylor Sheridan)監督が続々作品を送り込んでくるネオ西部劇ジャンルで、独自性を打ち出そうとする姿勢を責めるべきではない。
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問題は「西部は暴力の世界だった」というコンセプト自体が、もはや新しくないことだ。
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