雨が降りそうだ
君は声に出してつぶやく。
ほんとに雨が降ってきたらどうしよう。
小説は、こう始まった。この本を読み終えたとき、気がつくと、外は冬の冷たい雨が降っていた。韓国語では、雨と血は表記も
発音も違うけれど、似た音「ピ」。光州事件を描きだした小説の書き出しは象徴的だ。
読み終えたときに風景が一変してしまうような小説がある。『少年が来る』は、そんな小説だった。そして、小説が即時性では
なく、時間を踏みしめるようにして成熟し出来事を獲得していくものだということを改めて感じた。その時間の風化を擦り抜け
て現れだしたものの姿が痛く、辛い。
と同時に胸に迫り、ひたひたと浸潤してくる。しかも、これは、起こった事実の持つ事態からだけではなく、書かれた小説がも
つ魅力に貫かれていて、むしろ小説の想像力と創造力が事態を構築しているといえるのだ。痛く、辛いが小説を読む愉しさに出
会わせてくれる。それを「愉しさ」といっていいのだろうか。いや、どのような状況が描かれていてもしっかりとした小説を読
むことは愉しさなのだ。
この小説は7章からなる。第1章で登場する同じ時間、同じ場所にいた彼ら、彼女たちが、各章での中心人物になる。ハンガンの
小説的挑戦は、この各章で人称を使い分けていることだ。韓国の小説は基本、一人称で書かれるものが多い。三人称の主人公で
あっても、小説で書かれていく語りの人称は一人称になる。例えばAさんが主人公でも、小説の中では「私は」と書かれていく
ことが多い。だが、ハン・ガンはその人称を使い分けているのだ。
しかも、単に実験のための実験ではない。光州事件に出会った者たちのそれぞれを書き分けることで、共通の時間を生きながら、
共通の暴力を受け、共通の痛みを負った、しかし、個別のかえがたい生を描きだしているのだ。
第1章は、市民に対する軍の鎮圧発砲による大量の死者を安置した尚武館(サンムグァン)から始まる。友を探しに来る中学生の
トンホ。その友チョンデとチョンデの姉のチョンミ。死者を拭きあげ安置する作業を行うソンジュ姉さん、ウンスク姉さん。学生
デモをまとめるチンス兄さん。そして、トンホを迎えに来る母。軍隊は最後の一斉攻撃を始めようとしている。その中で、作者は
中学生のトンホに語りかけるように「君」という人称を使って小説を始める。6章までで、死者の魂となった人称までも使い切って、
このそれぞれが受けた暴力と負った傷を描きだす。ただそれを糾弾し告発するのではない。むしろ鎮魂し、暴力の持つ暴力性の不
条理を見つめる。不条理というよりは異常な条理といえばいいのか、国家の非人道的な合理。そして、その暴力がいかに癒やしが
たく心を痛め続け、それでも人がそれを抱えて生きていくのかを表現していく。人間性の尊厳と人間の野蛮さ。どちらへも裏返る
表裏の危うさと体制の恐ろしさ。個別の生への仮借なき暴威に対する生の静かな問いかけ。
魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たちを見守るんだろう。
今、尚武館に居る人たちの魂も、鳥のように体からいきなり抜け出したのだろうか。驚いた
その鳥たちはどこに居るのだろう。
デモへの圧搾は、鎮圧だけでは終わらない。連行された者たちへの、その人間の尊厳を奪うための狡智で残虐な拷問が待っている。
また、子や知人を失ったものは、その喪失から逃れられない。
ガラスは透明で割れやすいよね。それがガラスの本質だよね。だからガラスで作った品物は
注意深く扱わなくてはいけないよね。ひびが入ったり割れたりしたら使えなくなるから、捨て
なくてはいけないから。
昔、僕たちは割れないガラスを持っていたよね。それがガラスなのか何なのか確かめてみも
しなかった、固くて透明な本物だったんだよね。だから僕たち、粉々になることで僕たちが魂
を持っていたってことを示したんだよね。ほんとにガラスでできた人間だったってことを証明
したんだよね。
最終章では作者ハン・ガンとおぼしき人物が語り手になる。ハン・ガンは1970年光州生まれ。80年の光州事件の時は10歳ほどである。
事件の時はソウルに住んでいる。朝日新聞の書評で蜂飼耳はこう書いている。
子供の時に生じたこの出来事がいかに深い傷と衝撃に満ちた主題かということは、この小説
そのものが語る。作家には、いつか書こう、と思うテーマがある。本書はそうした意気込みと
緊張感を確実に伝える。(朝日新聞2016年12月11日 日曜版読書欄)
全斗煥(チョンドファン)による粛軍クーデター、軍部掌握をきっかけにして起こった民主化運動の象徴的な事件は、「スパイに
扇動された」とされ韓国内では報道管制が引かれる。外信により事件は伝えられ、また、次第に「光州での暴動」とされた事態は、
その規模や内実が明らかになっていく。ハン・ガンの中でも、長い日月を経て、積み重なるように思いが蓄積していったのではない
だろうか。
ある記憶は癒えません。時が流れて記憶がぼやけるのではなく、むしろその記憶だけが残
り、ほかの全てのことが徐々にすり減っていくのです。カラー電球が一つずつ消えるように
世界が暗くなります。
だが、小説がやって来る。
始めるのがあまりにも遅かったと私は思った。(略)
しかし今やって来た。どうしようもない。(252)
そうして、小説はやって来た。
真っ暗な芝生の下で踏んでいるのは土ではなくて、細かく砕けたガラス片のようだ。
ガラス片を踏みしめながら、だが、確実にやって来た。今、まだ蔓延する暴力の時代の真っ只中に。
問いが残る。
つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか? 私たちはただ普遍的な経験をしただけな
のですか? 私たちは気高いのだという錯覚の中で生きているだけで、いつでもどうでもいい
もの、虫、獣、膿と粘液の塊に変わることができるのですか? 辱められ、壊され、殺される
もの、それが歴史の中で証明された人間の本質なのですか?
冒頭は、2014年のセウォル号転覆事件を連想させた。また、今回の朴槿恵大統領退陣のデモは、ちょうど光州事件の頃学生だった
人の子どもたちも参加しているのではないかと思うと、恨の解消に向かうエネルギーだという気もする。それが朴正煕の子の退陣
に向かっているということに歴史の繋がりを感じた。
それにしても、すごい小説だった。ハン・ガンは『菜食主義者』を2013年春に読んだときに圧倒されたが、今回はさらに、また心を
つかまれた。
そういえば、テレビドラマの『第五共和国』と『砂時計』、よかったな。
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