その朝も「かわせみ」で一番の早起きは老番頭の嘉助であった。
嘉助は威勢よく箒を動かしながら、入口から塀に沿って進んだ、
塀が切れると空き地があって、その向こうに豊海橋がみえる。
橋ぎわに立つとすぐ右手に永代橋が、満々と水をたたえて流れ行く大川が見渡せる。
で、箒を片手にしばらく四辺を眺めてから「かわせみ」へ引き上げるのだが
その歩き出そうとした足が急に止まった。
豊海橋の袂の番小屋のかげからふらりと人が出てきたからである、
女で、それもまだ若い。衣紋は少しばかり乱れて、髪もほつれてはいるものの
乱暴狼藉に遭ったというようでもない。・・・
平岩弓枝/「御宿かわせみ」のうち「神かくし」の冒頭部分から。
豊海橋
永代橋を渡らずにちょっと上流へ歩くと豊海橋、
日本橋川はここから隅田川に注ぐ。
この場所に最初に橋が架けられたのは江戸時代の中期、1698年(元禄11年)とされる。
吉良邸への討ち入りを果たした赤穂浪士は永代橋で大川を渡ったのち、
この橋を経て泉岳寺をめざしたと伝えられている。
豊海橋を渡って見た永代橋は工事中だった、
河口側には雄大なビルが立ち並び、その前に永代橋がどっしり、好きな風景です。
最初の永代橋は私が立ってるこの辺りに架けられていた、何回か架け替えて今の場所に。
豊海橋からちょっと歩いて高尾稲荷神社。
非業の死を遂げた高尾大夫を祀った稲荷社。
高尾大夫とは吉原・三浦屋の職名、部長とか取締役とかですね、
最高位の名前で一代限りなのでいろいろな高尾大夫がいました。
有名なのは落語にもなった紺屋高尾。
「5代目-紺屋高尾。駄染(だぞめ)高尾とも。神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。
駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、手拭は当時の遊び人の間で流行したと伝わる。
のちに3人の子を産み、80歳余まで生きたとされる。」 (wikipedia)
一人がやっとの高尾稲荷。
ここに祀られているのは、2代目-万治高尾。
仙台侯に体重と同じ重さの小判を積んで身請けを乞われたが、
万治高尾には想う人がいたため「いやでありんす」。
言うことを聞かぬ高尾に怒った仙台侯は万治高尾を拉致してしまう、
隅田川三又の舟中で吊るし斬りされ、河水を紅で染めたと言い伝えられ、
遺体が流れ着いたこの辺りの人たちが高尾の神霊として崇(あが)め唱えるように、、、。
そのころ盛んだった稲荷信仰と結びついて高尾稲荷社の起縁となった。
とまあこの話は「俗説」の一つですが、近くには案内板があって、
「今より約三百二十一年の昔万治二年十二月皇紀
二阡三百十九年、千六百五十九年隅田川三又
現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により
遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の
遊女高尾太夫(二代目高尾野洲塩原の出)の遺体
がこの地に引上げられ此れより約八十米隅田川岸
旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として
祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象と
なりかなり栄えておりました・・・・・」
とあるそうで、私は見ていませんが。
さて、話は変わって。
茅場町辺りには高級外車のデーラーがたくさん店を並べています、
銀行や証券会社がたくさん並ぶこの辺りは商売になるのでしょうね。
かつて海辺の漁師町だったこの地は300年を経て当時の面影はありません、
ただこうして歩いてみるとそこここに昔の地名が現存し
当時の面影を偲ばせてくれます。
温故知新、古きを知ることもまた心わくわく、
さて次はどこを歩きましょうか。
6月26日 古きを訪ね新しきを知る
嘉助は威勢よく箒を動かしながら、入口から塀に沿って進んだ、
塀が切れると空き地があって、その向こうに豊海橋がみえる。
橋ぎわに立つとすぐ右手に永代橋が、満々と水をたたえて流れ行く大川が見渡せる。
で、箒を片手にしばらく四辺を眺めてから「かわせみ」へ引き上げるのだが
その歩き出そうとした足が急に止まった。
豊海橋の袂の番小屋のかげからふらりと人が出てきたからである、
女で、それもまだ若い。衣紋は少しばかり乱れて、髪もほつれてはいるものの
乱暴狼藉に遭ったというようでもない。・・・
平岩弓枝/「御宿かわせみ」のうち「神かくし」の冒頭部分から。
豊海橋
永代橋を渡らずにちょっと上流へ歩くと豊海橋、
日本橋川はここから隅田川に注ぐ。
この場所に最初に橋が架けられたのは江戸時代の中期、1698年(元禄11年)とされる。
吉良邸への討ち入りを果たした赤穂浪士は永代橋で大川を渡ったのち、
この橋を経て泉岳寺をめざしたと伝えられている。
豊海橋を渡って見た永代橋は工事中だった、
河口側には雄大なビルが立ち並び、その前に永代橋がどっしり、好きな風景です。
最初の永代橋は私が立ってるこの辺りに架けられていた、何回か架け替えて今の場所に。
豊海橋からちょっと歩いて高尾稲荷神社。
非業の死を遂げた高尾大夫を祀った稲荷社。
高尾大夫とは吉原・三浦屋の職名、部長とか取締役とかですね、
最高位の名前で一代限りなのでいろいろな高尾大夫がいました。
有名なのは落語にもなった紺屋高尾。
「5代目-紺屋高尾。駄染(だぞめ)高尾とも。神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。
駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、手拭は当時の遊び人の間で流行したと伝わる。
のちに3人の子を産み、80歳余まで生きたとされる。」 (wikipedia)
一人がやっとの高尾稲荷。
ここに祀られているのは、2代目-万治高尾。
仙台侯に体重と同じ重さの小判を積んで身請けを乞われたが、
万治高尾には想う人がいたため「いやでありんす」。
言うことを聞かぬ高尾に怒った仙台侯は万治高尾を拉致してしまう、
隅田川三又の舟中で吊るし斬りされ、河水を紅で染めたと言い伝えられ、
遺体が流れ着いたこの辺りの人たちが高尾の神霊として崇(あが)め唱えるように、、、。
そのころ盛んだった稲荷信仰と結びついて高尾稲荷社の起縁となった。
とまあこの話は「俗説」の一つですが、近くには案内板があって、
「今より約三百二十一年の昔万治二年十二月皇紀
二阡三百十九年、千六百五十九年隅田川三又
現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により
遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の
遊女高尾太夫(二代目高尾野洲塩原の出)の遺体
がこの地に引上げられ此れより約八十米隅田川岸
旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として
祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象と
なりかなり栄えておりました・・・・・」
とあるそうで、私は見ていませんが。
さて、話は変わって。
茅場町辺りには高級外車のデーラーがたくさん店を並べています、
銀行や証券会社がたくさん並ぶこの辺りは商売になるのでしょうね。
かつて海辺の漁師町だったこの地は300年を経て当時の面影はありません、
ただこうして歩いてみるとそこここに昔の地名が現存し
当時の面影を偲ばせてくれます。
温故知新、古きを知ることもまた心わくわく、
さて次はどこを歩きましょうか。
6月26日 古きを訪ね新しきを知る