東十条探偵団2

明日は何を撮りに行こうかな?

山谷掘を吉原まで

2017-06-18 | 散歩
  江戸では吉原通いは舟でというのが粋と言われていた、
  隅田川を遡り山谷掘に入って吉原大門まで。
  いま山谷掘は埋め立てられ公園となっているが
  架かっていた橋台など残っているので当時を偲んで歩いてみよう。


  

     隅田川からの最初の橋、今戸橋。
     左の隅田川から右の吉原へとここでも遡る。
     道路の前方は待乳山聖天、私の背中は今戸神社、それぞれ5分くらいの距離。




  

     それぞれ残っている橋台がぴったり合っているのでこの幅だったのでしょう、
     結構広いので猪牙舟が余裕ですれ違える。
     今戸神社で会ったあのおネエさんにまた会った、奇遇だね。




  

     実は、正直になところこの時期なのでどこかにアジサイでも、、、
     と思って待乳山聖天とか今戸神社へ行ったけど無かった。
     ここへきてやっとアジサイに出合うことが。
     前方はガイジンさん、珍しいね山谷掘なんか観光してるみたい。




  

     上流へ4番目の橋「正法寺橋」たもとの合力稲荷神社、
     左の大きな石を持ち上げて力を競い合ったか。
     これは三ノ宮卯之助が持ち上げたとされる力石らしい。




          

          子規の句碑 「牡丹載せて 今戸へ帰る小舟かな」。
          子規も吉原へ通ったのだろうか?。




  

     江戸時代には今でも驚くほどリサイクルが進んでいた。
     街じゅうをクズ屋がまわり衣類や紙類などを集めてリサイクル、
     ここ紙洗橋のあたりでは集めた古紙を溶かして再生紙に。
     今でいうトイレットペーパー、浅草紙として江戸中に売られていた。




  

     そして今のリサイクル担当者、細かく言うとゴミ置き場に出された古紙は
     区の所有で持ち去れば窃盗に当たる。
     それはともかくこの人たちは紙の再生に一役買っているわけだ。




  

     そして吉原の入口&出口となる見返り柳、この向こうに吉原大門がある、
     吉原は周囲を掘で囲まれ出入り口はここだけ。
     この柳は何代目になるのかな、かつてここで吉原を振り返りつつ
     帰途についた人たちの胸中やいかに。




  

     見返り柳をちょっと過ぎたあたり、桜鍋の「中江」さん。
     当時日本では肉食はタブー、馬肉を桜鍋、イノシシをぼたん鍋と称して食べていた、
     吉原で張り切るために乗り込む前にまず桜鍋で精力をつけて、、、。
     この建物は「登録有形文化財」に指定されています。




  

     ちょっと進んで三ノ輪の手前にあしたのジョーが。
     そう、ここは山谷の真ん中かつてのドヤ街、労働者の街、
     日々働いた稼ぎを酒に代える人たちの住むスラム街。

     山谷掘も水が流れていたころはここの人たちの無料公衆浴場、
     そのために埋め立てて公園にしたとの噂も。
     かつては「山谷」という地名もあったけど今ではみんな「日本堤」、
     警察署も消防署も交番もみんな日本堤と名を変えた。

     私らの年代には山谷は良くも悪くも郷愁を誘う町、
     ニッポンの高度成長を支えた街でもありました。


                                            6月6日 奥浅草・山谷掘
          

コメント (2)
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