はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

いま街道歩きがおもしろい 伊勢街道(三輪~榛原編)

2015-04-16 20:30:32 | 街道歩き
<街道歩きのおもしろいところは、歴史に、文化に、自然に、そして、人に出会えることです。>
今回は、伊勢街道を三輪から榛原まで歩きます。(回想の旅ですが
実際に歩いたのは、2014年2月3日です。

前回の旅では、奈良を出発し、大神神社(おおみわじんじゃ)までやって来ました。
ここから、山辺の道を少し歩くと、海柘榴市(つばいち)という所に着きます。



今は、ごく普通の村の風景ですが、古代には北から山辺の道、南から阿部山田道、そして東西に横大路(西に行けば難波に行けます)が交差した交通の要衝だったのです。「八十(やそ)のちまた」とよばれ、ちょっとした繁華街だったようですよ。
また、近くには大和川を遡って来る船の港もありました。(大阪市から、桜井市まで、船で行き来していたというのがびっくりですよね
そんな場所なので、仏教伝来の地といわれる碑も建っていました。その使節団も船に乗ってやって来たようです。仏教伝来はたしか、538年(「ごさんぱい」と覚えました)と言われていますが、これも諸説有りで、まあこの頃には違いないでしょうが…。

(大和川(初瀬川)の河川敷公園に建つ仏教伝来の碑)
ここから三輪山と鳥見山との間の谷間に入って行きます。万葉の時代から、隠口の初瀬(こもりくのはつせ)とよばれたところです。
歩いていると、「出雲」という地名が出てきたりして、思わず古代の出来事を妄想してしまいます。(街道歩きの醍醐味ですね)
そうこうしているうちに初瀬です。古くからの長谷寺への参詣道でもあります。

(左が旧道、右が国道165号線)
今回は、長谷寺(西国三十三カ所です)にはお参りせずに、参道の途中から橋(伊勢辻橋)を渡って、化粧坂(けわいざか)の急坂を登ります。

(坂の上から見た長谷寺)
坂を降りた所から、165号線に合流して、西峠を越えます。単調な歩道歩きが続きますが、所々に旧道があり、古い道標も残っています。



(「右いせ」とあります。 文化四というと1807年?)
やっと峠を越えて、しばらくすると榛原の町です。旧旅籠の「あぶらや」が見えると、すぐ近鉄榛原駅です。

今回の旅はここまでです。というか、まだこの先には進んでいません。伊勢はまだまだ先です。

塚口あたりをぶらり

2015-04-15 16:43:38 | 知らない街をぶらり
なぜ塚口かというと、そこにある園田女子大学のシニア専修コースの学生なのです。(もう4年目になりました
阪急神戸線の塚口駅で降りて、15分ほどのところに学校があります。
早くから生涯学習に力を入れている大学で、学んでいるシニアも多いです。(80歳を越えている方もいますよ。)3年間の専修コースの後は、研究生として引き続き学び続けることができます。

(大学のシンボル、ケヤキアベニュー)

阪急塚口駅西口を出ると、すぐの所に、近松門左衛門さんのモニュメントが建っています。(尼崎市内には、近松門左衛門さんに関する記念碑が多いです。)ここにあるのは、愛用したと伝えられる硯石と「曾根崎心中」の床本(浄瑠璃の本)をモチーフにしたものだそうです。JR塚口駅近くの広済寺には墓所があります。


私は、大のカレー好きですが、なんとカレーの美味しい店が、阪急塚口の駅前にあるのです。店の名前は「アングル」です。こくのあるカレーで、ビーフカレーはお肉たっぷりです。


そして、最後は鉄道の話です。朝日新書から出ている『鉄道でゆく凸凹(でこぼこ)地形の旅』今尾恵介著に、阪急塚口駅のことが出てきます。日本各地の峠越えやカーブのことを書いているのですが、「鉄道カーブ名場面50選」の中に「おそるべし半径60メートルの直角曲線(阪急伊丹線 塚口駅)」と題して「箱根登山鉄道とか大井川鉄道井川線などの特殊な鉄道ならともかく、車長19メートルの普通サイズの電車が走る路線としては、阪急伊丹線の塚口駅を出てすぐの半径60メートルは例外的にきつい。この区間は制限時速わずか15キロで、キイキイと車輪を軋ませながらのカーブ通過は印象的だ。神戸線も伊丹線もこの駅前後の区間は直線がずっと続くので、地図で見ると「直角カーブ」の印象はさらに強まる。」
と書かれています。


実際に現場に行ってみると、そんなに急カーブには見えませんが、駅に出入りする車両は、かなり傾きながら、キイキイと悲鳴をあげながら発着していました。




もっと他にも塚口のいいところがあると思いますので、また大学の行き帰りにゆっくり歩いてみたいとおもいます。




いま街道歩きがおもしろい 伊勢街道(奈良~三輪編)

2015-04-14 21:04:32 | 街道歩き
<街道歩きのおもしろいところは、歴史に、文化に、自然に、そして、人に出会えることです。>
今回は、伊勢街道を奈良から三輪まで歩きます。(回想の旅ですが
実際に歩いたのは、以下の通りです。
1回目(2013.12.14) 奈良~天理
2回目(2014.1.23)  天理~三輪

伊勢街道は、文字通り伊勢に参宮するための道です。江戸時代の庶民にとっては、お伊勢参り=旅でした。大坂から、京都から、江戸からと、いくつかの伊勢街道を通って伊勢をめざしました。1650年・1705年・1771年に起こった集団参詣は、「おかげ参り」(「抜け参り」とも)と言われ、60年周期に3回起こったそうです。中でも、1705年(宝永2年)は、2ヶ月で330万~370万人が参宮したそうです。本居宣長の記録によると、4月上旬から1日2~3千人が松阪を通り、最高は1日23万人だったそうです。(信じられない数字です

前置きが長くなりましたが、私は、大阪から暗峠を越えて奈良までやって来ました。(前回参照)
奈良では、大仏でも見学して…。しかし、江戸時代の初めの頃は、大仏さんは雨ざらしだったのです。公慶さんの努力により、大仏殿が完成したのが1709年ですから、おかげ参りの人たちも、そんな大仏さんを拝んでいたのでしょうか。
地図でもわかりますが、三条通りを東に来た道は、猿沢池(さるさわのいけ)の所で直角に曲がって、南下します。


そういえば、猿沢池から見える五重塔も、明治の廃仏毀釈の嵐の中で、危うく焼き払われるところでした。
古い町並みの残る奈良町を抜けて、田園風景の中をひたすら南へ歩きます。この道は、上街道とも呼ばれ、古くは「上ッ道」と呼ばれた古道です。(このほかに「中ッ道」「下ッ道」があります。飛鳥時代に整備されました。)
やがて天理の市内です。母屋(もや)と呼ばれる建物が並んでいて、宗教都市にやって来たという感じがします。歩いている人も天理教の黒いはっぴを着ている人が目立ちます。

しばらく歩くと、我が芭蕉さんの句碑がありました。『笈の小文』の吉野・高野の旅のあと、この地で藤の花を見て詠んだと伝えられています。

(「草臥れて 宿かる比や 藤の花」:くたぶれて やどかるころや ふじのはな)

このあたりまで来ると、三輪山が近づいてきます。額田王(ぬかたのおおきみ)の和歌も良いのですが、時間も無くなってきたので、先に進みましょう。

(三輪山をバックに走る、JR桜井線)

やがて、箸墓古墳が見えてくると、今回の旅も間もなく終了です。この箸墓古墳は、前方後円墳としては最も古いものらしく、卑弥呼の墓ではないかと考えている学者もいます。また、周辺には巻向遺跡(まきむく)といわれる古代の遺跡も発見されていて、(ここも邪馬台国ではないかと考えられています。)古代史のロマンを感じるところです

(箸墓古墳へとつづく上ッ道。壬申の乱の時に、ここで戦いがあったと記録が残っています。)

最後に、三輪神社にお参りしておしまいにしましょう。三輪神社ともいいますが、大神神社というのでした。おおかみ神社ではありませんよ。「おおみわじんじゃ」といいます。酒造りの神様でもあるのでしっかりお参りしましょう。それにしても、ご祭神が大物主大神なんですね。このお方は出雲の神様では…。

六甲おろしを歌ってきました

2015-04-13 16:57:27 | 日記
今シーズン初の甲子園です(といっても年に2回~3回の応援ですが
あいかわらず甲子園球場は満員御礼でした。


対戦相手は広島カープです。カープファンもたくさん来ていました。「カープ女子」やら黒田復帰で盛り上がってますよね。レフトスタンドの半分は、真っ赤に染まっています。


もちろん我がタイガースの応援も盛り上がっていますよ。選手ひとり一人の応援歌を歌ったり、振り付けをしたりと、真のファンは、こうでないといけません。(私は、もっぱら「かっ飛ばせ○○!」だけですが


そして、ラッキーセブンの恒例の風船とばしです。私は、あまり好きではありませんが、これも縁起ものですから。(7回表からふくらばすの、やめてほしいわ。)


その御利益あってか、8回裏に鳥谷選手の逆転ツーランホームランでタイガースが勝利をおさめることができましたええホームランやったです
そして、勝利の歌「六甲おろし」の大合唱。歌えてよかったです


野球は、やっぱり球場で見るのが迫力があっていいですね。そして、ひいきのチームが勝ってくれると、一段と嬉しいものです。おまけに、ホームランが見られると、もう最高です!天気も良く、ビールも…。
「美味しいビールも飲めました。」と言いたいところですが、私は、アサヒスーパードライが嫌いなのです。ところが、甲子園球場は、どっちを向いてもアサヒビールばっかしですしかたがないので、黒ビール(これならなんとか)で我慢しました(甲子園球場様、キリンやサントリーも置いてください。お願いします。)



名残の桜をたずねて

2015-04-11 17:01:09 | 寺社めぐり
我が芭蕉さんは、大の西行さんファンでした。西行さんは、「西行といえば桜」というほど桜の歌をたくさん作っています。とくに吉野では、桜に囲まれて3年間を過ごしています。芭蕉さんも、西行さんを追いかけて、吉野に入りました。
この時期、西行さんや芭蕉さんを追っかけるなら、吉野に行くのが一番なのですが、きっと車と人で、大変なことになっていそうなので、あえて、引川寺に名残の桜を見に行くことにしました。(引川寺は西行さん入寂の地です。)

引川寺は、葛城山の山麓にあり、まだ少しぐらい桜も残っているかと期待していましたが、残念ながら葉桜でした。


西行さんの墳墓がある丘へは、本堂の横から階段を登っていきます。すぐに、西行堂というお堂があります。林の中にひっそりと佇んでいる姿は、西行さんの終焉の地としてふさわしい感じです。


さらに、静寂な道を進んで行きます。吉野では、こんな風景には出会えなかったことでしょう。


やがて、丘の上にある西行墳に着きました。残念ながら、ここも桜は散りそめしでした。


有名な「ねがはくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」の歌碑も立っています。


この歌は、死の直前に歌ったものではなく、数年前に作られたものだそうです。西行さんの亡くなったのは1190年のことです。その5年前に、平家は壇ノ浦で滅びました。もと北面の武士であった西行さん(佐藤義清:さとうのりきよ)は、平清盛とも同僚でした。そして、1140年23歳で出家して後、保元、平治の乱、源平の戦いと、まさに激動の時代を間近に見ながら生きた人でもあるのです。西行さんの歌の無常観はこのあたりからきているのでしょうか。(和歌の世界は、ほとんど知らない素人の意見ですが。)

今回は、桜は散った後でしたが、3年前に訪れた時には、花盛りの引川寺でした。西行さんも、こんな風景を眺めていたのでしょうか。

(2012.4.15)

(2012.4.15)