春になった。筍の季節到来である。日本全国の彼方此方で筍がにょきにょき顔を出して食べて下さいと言っている。筍を人間が間引かないと、竹薮が里山を占領してしまう。竹の生命力は極めて旺盛である。その遺伝子を頂戴すると人間の生命力も旺盛になる。
同行二人の四国遍路旅でお世話になった、大歩危・旅人の宿「空音遊」の主人ノリさんも裏山の重労働の筍掘りに汗を流している。そして地域の住民におすそ分けして爺さん婆さんは喜んでいる。
夕方には御届け物が其処彼処の爺さん婆さんから来る。筍御飯・おかかと筍の煮物・わかめと筍の酢の物・筍のテンプラ。ノリさん笑顔で喜んでいる。金勘定は無く、温かい心の触れ合いと笑顔があり、古き良き日本の原風景である。50年タイムスリップしている。ノリさん、「Back to the Future」して平成20年に戻って下さい。
久しぶりに名古屋の従兄の正浩さんに会った。四国歩き遍路を十数年前に達成した先達である。3月の四国の遍路旅の話を聞いて頂いた。経験者であるから話を完璧に理解して下さる。そして残っている遍路道の情報を仕入れた。
昼食時なので、竹膳料理で有名な岡崎郊外の真福寺を訪ねることにした。自宅から車で30分程度の自動車都市の豊田との境目にある名古屋近辺最古の天台宗の寺である。推古天皇2年に物部守屋の次男真福が山の頂より霊光輝き瑞雲たなびくを見て不思議に思い訪れたところ、凛凛と湧き出る泉を発見した。日頃信仰している薬師如来が出現して、「良い薬が此処に在る」と告げて消えたという。1600年後の人間の思い付いた良薬が筍料理なのであろう。物部氏は仏様より神様を志向したと思うが、仏教の寺になっている。神仏は習合しているのである。
般若心経の空観は「こだわるな・かとよるな・とらわれるな」であるが、この寺の竹膳料理の「こだわり・かたより・とらわれ」は半端ではない。
筍とこんにゃくの刺身・筍田楽・筍のテンプラ・筍ときゅうりの酢の物・筍の佃煮・筍と豆腐の煮物・筍の清汁柚子風味・筍御飯。そしてお椀・皿・器・箸・田楽の串すべて竹製品である。精進料理で生臭が一切無いのである。これだけ筍と竹に「こだわり・かたより・とらわれ」るのは般若心経の空観に反抗しているのではないのか。
美味い筍料理を堪能して気が付いたのである。人間は徹底的に「こだわり・かたより・とらわれ」に没入することが本性である。それが無くなると仏様で極楽往生である。生きている時は、自己責任で決めた物事にとことん「こだわり・かたより・とらわれ」なければならない。「目からうろこ」過去のこだわらないとするこだわりの人生観の殻が破れた。こだわらない人間はお釈迦である。
その対象によっては人間集団の損得・利害・善悪の価値判断で諸々の評価が有るだろうが、阿弥陀様は全てを許し極楽に導いてくださる。
真福寺のこだわりの竹膳料理の人気で得た利益は、高額の盆栽にこだわっている。川端康成の愛蔵の五葉松や杜松・真拍などなど時価数千万円の盆栽が目白押しである。小さな盆栽が少ない土で懸命に数百年生き続けている。それを要求する人間は悪魔なのか仏なのか不明であるが、しかし美しい芸術だろう。
般若心経を超越して、徹底的に「こだわり・かたより・とらわれ」るとお釈迦様もお手上げで、ニコニコ笑って静観する以外にアイディアが浮かばない。
同行二人の四国遍路旅でお世話になった、大歩危・旅人の宿「空音遊」の主人ノリさんも裏山の重労働の筍掘りに汗を流している。そして地域の住民におすそ分けして爺さん婆さんは喜んでいる。
夕方には御届け物が其処彼処の爺さん婆さんから来る。筍御飯・おかかと筍の煮物・わかめと筍の酢の物・筍のテンプラ。ノリさん笑顔で喜んでいる。金勘定は無く、温かい心の触れ合いと笑顔があり、古き良き日本の原風景である。50年タイムスリップしている。ノリさん、「Back to the Future」して平成20年に戻って下さい。
久しぶりに名古屋の従兄の正浩さんに会った。四国歩き遍路を十数年前に達成した先達である。3月の四国の遍路旅の話を聞いて頂いた。経験者であるから話を完璧に理解して下さる。そして残っている遍路道の情報を仕入れた。
昼食時なので、竹膳料理で有名な岡崎郊外の真福寺を訪ねることにした。自宅から車で30分程度の自動車都市の豊田との境目にある名古屋近辺最古の天台宗の寺である。推古天皇2年に物部守屋の次男真福が山の頂より霊光輝き瑞雲たなびくを見て不思議に思い訪れたところ、凛凛と湧き出る泉を発見した。日頃信仰している薬師如来が出現して、「良い薬が此処に在る」と告げて消えたという。1600年後の人間の思い付いた良薬が筍料理なのであろう。物部氏は仏様より神様を志向したと思うが、仏教の寺になっている。神仏は習合しているのである。
般若心経の空観は「こだわるな・かとよるな・とらわれるな」であるが、この寺の竹膳料理の「こだわり・かたより・とらわれ」は半端ではない。
筍とこんにゃくの刺身・筍田楽・筍のテンプラ・筍ときゅうりの酢の物・筍の佃煮・筍と豆腐の煮物・筍の清汁柚子風味・筍御飯。そしてお椀・皿・器・箸・田楽の串すべて竹製品である。精進料理で生臭が一切無いのである。これだけ筍と竹に「こだわり・かたより・とらわれ」るのは般若心経の空観に反抗しているのではないのか。
美味い筍料理を堪能して気が付いたのである。人間は徹底的に「こだわり・かたより・とらわれ」に没入することが本性である。それが無くなると仏様で極楽往生である。生きている時は、自己責任で決めた物事にとことん「こだわり・かたより・とらわれ」なければならない。「目からうろこ」過去のこだわらないとするこだわりの人生観の殻が破れた。こだわらない人間はお釈迦である。
その対象によっては人間集団の損得・利害・善悪の価値判断で諸々の評価が有るだろうが、阿弥陀様は全てを許し極楽に導いてくださる。
真福寺のこだわりの竹膳料理の人気で得た利益は、高額の盆栽にこだわっている。川端康成の愛蔵の五葉松や杜松・真拍などなど時価数千万円の盆栽が目白押しである。小さな盆栽が少ない土で懸命に数百年生き続けている。それを要求する人間は悪魔なのか仏なのか不明であるが、しかし美しい芸術だろう。
般若心経を超越して、徹底的に「こだわり・かたより・とらわれ」るとお釈迦様もお手上げで、ニコニコ笑って静観する以外にアイディアが浮かばない。