風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

国道153号のお馬様はお釈迦様 261号

2008年04月17日 14時41分55秒 | 随想
平日に田舎の温泉を訪ねる為に、一般国道・153号線を走行した。都市部を離れると、道路には車が無く、対向車もめったに来ない。路肩の歩道を歩く人影も無い。交通信号は黄色の点滅信号で、バイパスが市街地を避けて整備されているからほとんどノンストップで目的地に到着できる。高速道路と変わらない時間で目的地に到達可能である。荒れた棚田や休耕田を挟んで道路が網目のように存在する。日本国には道路が多すぎる。昔は中馬街道と言われた、三河から足助を通り信州の根羽・平谷・浪合・飯田・伊那に至る道で、塩を運んだ道として古くから重視された。

「中馬」は江戸時代に信州の馬による運送業者の組合で「賃馬」(ちんば)「中継馬」(ちゅうけいば)が語源と言われる。

三河湾沿いの大浜・棚尾(碧南市)・生田(一色町)などでとれた塩は,矢作川の古鼠(ふっそ:豊田市)や矢作川支流の巴川の平古(ひらこ:豊田市)まで川船で運び、そこから馬の背で足助の塩問屋に送られた。運ばれてきた塩は産地によって目方が違うから、山道に適するように,7貫目(約26㎏)の俵に包み直し,信州へ運んだ。

江戸時代後半に塩問屋は14軒あり,明治中期には年間2万俵を越える塩が信州へ運ばれた。一頭の馬の背に4俵ずつつけて運んだので、年間延べ5千頭を越える馬が必要である。

塩の中継地として栄えた足助は、明治後半の飯田線の開通に伴い、宿場的性格はほとんどなくなった。現在の飯田線はモータリゼーションの波をもろに被り、閑古鳥が鳴いている。絶えず変化する諸行無常の世間である。

人馬一体となって、塩を運んだ中馬街道は、勾配が緩やかで曲がりくねっているが、人馬に必須の水を得る為に、川岸の道である。そして時速4kmの人間の歩行速度の移動距離は日に30kmが限度である。その間隔で旅人のニーズに答え、宿場町を形成して、人が分散生活することが、多様な瑞々しい風俗・習慣・日本文化を育んだ。高速移動、少子高齢化社会は宿場町を悉く廃墟と化し原野になるのである。人が歩いた古道は、自動車にとっても優しい道なのである。ガソリンの消費が極めて少ない。都市一極集中は単調で深みのない冷たい文化を増殖する。

塩は野沢菜漬けなど冬の保存食製造の為に消費される。漬物や山の幸、当時栽培されていたタバコ葉は中馬街道を馬の背に乗り、三河に旅をした。荷物を運び続けて老齢となった馬は死して馬刺しや桜鍋、内臓は「おたぐり」となり、山村の貴重な蛋白源として人間の胃袋に納まる。人間の都合で、文句を言わず、一生を終わるお馬様は仏様・お釈迦様である。サムシンググレートの都合を信じて、国道153号のお馬様と同様の人生も悪くないなと思うのである。


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