風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

同行二人の一人旅

2007年10月04日 17時03分26秒 | 四国遍路

四国を一人旅をした時のことである。松山道後温泉の松山ユースホステル・神泉園共和国は遍路旅の人間と外国人に好評な宿である。大阪の区切り歩き遍路をしている壮年の男性に四国八八ヶ寺巡礼旅を勧められた。近くの石手寺は15分程度で、遍路旅発祥の寺であるという。野次馬根性旺盛な風来坊は翌日に訪ねる事にする。

石手寺に伝承がある。

昔々、伊予国の豪農の衛門三郎が権勢をふるっていたが、強欲だから民の人望も無かった。豪邸に粗末な身なりの僧が現れ、托鉢をするが、追い返す。毎日来る僧の鉢を八日目に三郎は怒って、地面に叩き付けると八つに割れてしまう。僧も姿を消した。

三郎には八人の子がいたが、日に一人亡くなり、八日目には全員死ぬ。悲しみの極みの三郎の夢に弘法大師が現れ、あの時の僧が大師であったことに気が付く。

懺悔の気持ちから、財産を処分出家して、大師を追い求める四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合いたい気持ちから、今度は逆に回ることにし、巡礼の途中の12番札所の焼山寺で、行倒れの三郎の前に大師が現れる。三郎は無礼を泣いて詫び、伊予国に生まれたいと託して息を引き取った。

大師は路傍の石を取り「衛門三郎再来」と書いて、左の手に握らせた。翌年、伊予国の領主に長男が生れるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に石手寺と寺号を改めたという。

石手寺は呉に向かうフェリー乗り場の松山観光港とは逆の方角なので、宿に荷物を預け、徒歩で手掘りの洞窟を抜けると程なく四国遍路発祥の51番石手寺の境内。門前の店で四国霊場八八ヶ所納経帳を購入して、朱印を頂く。遍路の旅立ちの瞬間である。何年掛かるか不明であるが、細切れで達成する覚悟。ルールは自分で決め、自分との戦いの旅なので、途中交通機関を利用してもかまわないのである。他人に吹聴して自慢する事ではない。達成した暁には良い顔になるだろう。

生真面目な伝教大師最澄の比叡山回峰行は厳格なルールがあり隔離された山中の修行で、挫折は死の掟がある。

おおらかな弘法大師空海は、ゆるやかな決まりで、気楽に凡人も挑戦できる現実的な歩行禅である。俗世間が道場であるから、誘惑が多くむしろ難しい。人は誘惑には弱い存在、だから人生が楽しい。

宿に戻り、神泉園共和国大統領に次の52番太山寺の道案内を尋ねたら、9km程度。2時間程で歩ける距離と思い歩きは始める。

途中、喉の渇きに耐えられず、コンビニで天然水を購入。道を地図を示して問うと、アルバイトの女学生は53番円明寺を打ってから、52番太山寺を経由して山越え松山観光港の道程を薦める。若者には伝統・因習・しきたりに囚われない自由な発想がある。道後温泉から黙々と3時間連続して歩き、港に到着できた。途中のグループホーム・ルンビニーという老人ホームで麦茶の接待を頂戴した。ご馳走様。
 
通常は白装束で杖が弘法大師の同行二人なのであるが、杖が無いので一人旅であった。将来の遍路旅は、白装束にするのか、杖を持つのか、数珠は、般若心経を唱えるのかなどは思案中で、許されるならハイキングスタイルが好みなのである。お大師様が許して下さっても、世間が許さないかもしれない。遍路は歩く過程が大切と思うのである。

14時5分の旅客フェリー四万十川に乗船して呉港に向かった。2時間程度の航海である。歩いて火照った体に潮風が心地よい。



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