風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

出光丸は経済戦争の戦艦 175号

2007年10月05日 08時56分15秒 | 紀行文
四国を一人旅をした時のことである。松山観光港から瀬戸内海を渡り、呉のホテルに宿泊した翌日は、6時に朝食を済ませ、歴史の見える丘公園まで歩こうと思った。噫戦艦大和之塔・造船船渠記念碑・呉海軍工廠礎石記念塔があり、戦艦大和建造ドック跡が見える。お目当ての海上自衛隊呉史料館てつのくじら館と大和ミュージアムの開館時間は9時なので時間を消化しないといけない。

大和のふるさと記述された機密保持の為の屋根付ドックの先には、巨大原油タンカー「出光丸」が停泊している。NHKの「プロジェクトⅩ 挑戦者たち」で放送された船である。
 
1966年、世界最大の船の建造が始まった。船体の長さは東京タワーを凌ぐ342メートル。積み荷は原油、日本の一日の消費量を一気に運ぶ夢のタンカーで、当時、世界中のタンカーは欧米の石油メジャーに握られていた。日本は割高な油に苦しんでいた。「自前のタンカーを持ち、直接中東から買い付ける」立ち上がったのは、石油会社の出光興産。船の建造を請け負ったのは、IHIマリンユナイテッド横浜工場だった。

1964年は新幹線が開通して、東京オリンピックがあり、1966年はビートルズが来日し、1969年には東名高速が開通、1970年に大阪万博が開催され、団塊の世代が社会人になる、明るい未来を夢見る時代であった。1972年には今太閤の田中角栄が列島改造論と共に出現する。

年金問題は積立金が増加して、社会保険庁の仕事はその資金の運用であった。社会人に仲間入りした私の年金支給開始年は55歳といわれた時代である。石油は各地で新油田が発見され、埋蔵量が右肩上がりに増加した。そんな時代に出光丸は誕生した。出光丸と同時期に、私は社会人に成った。貴様と俺とは同期の桜なのである。

それから40年経過して、呉港で偶然に見た出光丸は、現役を引退して廃船解体されるようである。大きく社会に貢献した巨人は行き先が無い。死を待つのみである。社会に対する貢献度の少ない小人の私は、小回りが利き、仕事は何処にでもある。死の瞬間まで働き続ける事が出来る。大きいことは良いことであるが、最高に良いことは小さいことである。

戦艦大和は、呉海軍工廠で誕生し、太平洋戦争末期に特攻出陣し撃沈され、戦艦出光丸は経済戦争に勝利して戻り解体される。戦艦大和の形状は美しく、出光丸は働き者の農家の女将さんの印象がある。美人薄命の言葉は的中している。

呉の港は、誕生を祝う神社の役と死を弔う寺院の役の両方を兼ねているようである。造船船渠記念碑の石に腰掛けて、朝の呉の海を見ながらの過去の回想である。




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