風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

熱田さんには信長塀 388号

2008年10月30日 07時31分26秒 | 随想
永禄3(1560)年5月19日未明に、前夜に敦盛を舞った信長は清州城を200人ほどで出陣した。熱田神宮で戦勝祈願をした。

尾張大攻撃にのぞむ今川義元の大軍勢は、なんと約25,000人。信長軍は3000人だった。桶狭間の松林の義元本陣で昼飯中、豪雨となり、信長総攻撃。わずか2時間、弱冠27歳の信長大勝利。

桶狭間の戦勝記念に信長が奉納した熱田神宮本殿の前面、海蔵門の左右に連なる土塀が「信長塀」。兵庫西宮神社の「大練塀」、京都三十三間堂の豊臣秀吉の「太閤塀」と合わせて日本三大土塀である。徳川家康の土塀は無く、「太閤塀」をぶっ壊したのである。

清洲城から安土城の信長、長浜城から大阪城の秀吉、岡崎城から江戸城の家康。

鳴かないホトトギスを殺してしまう信長、鳴かせてみせる秀吉、鳴くまで待った家康。三人三様の英傑は尾張三河地域で誕生した。

愛知県名古屋市で大東亜戦争の終戦の前年に誕生した私は、程なく長野市に移り、新潟市、長岡市、神戸市、安城市、豊田市、岡崎市、浦和市、彦根市を経由し岡崎市に舞い戻った。

無名の私の積水ハイムの城には、ホトトギスは存在せず、カラスが鳴き、土塀は無く、アルミの柵が僅かにある。

安城更正病院で誕生した次男は間も無く熱田神宮で式を挙げ、名古屋市に新居を構える。尾張三河地域で誕生した人間の生き様は多種多様、波乱万丈の様であるが、本人が懸命に生きるのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。