風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

嗚呼、三河男児

2010年10月11日 06時42分54秒 | 随想
名古屋に生まれ、長野で少年時代を過ごし、新潟の学校、神戸に就職、三河安城の工場勤務が20年、辞令で東京、彦根に転勤し、定年後は岡崎に住む風来坊の参男坊。

初秋のある晴れた日、東公園の里山の中腹に志賀重の「三河男児の歌」の石碑を発見する。

『汝見ずや段戸の山は五千尺 雲顛天にまじわって終古碧なり 又見ずや矢作の水は三十里 急たん石を噛んで矢よりも疾し

(後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の将軍・足助次郎重範は三河男児。
江戸幕府の将軍・徳川家康も三河男児。
明治維新の大政奉還では土佐藩の坂本竜馬の仲介で薩摩藩・長州藩・肥前藩が威張りだしたではないか)

嗚呼段戸の山は誰が為に高く 矢作の水は誰が為に叫ぶ 三河男児其れ行け 三河男児須く奮起すべし』

静岡県湖西市出身の豊田佐吉、刈谷に自動織機の工場を設立、息子の喜一郎が西三河にTOYOTAを創業、世界制覇した。三河男児なのだろうか。

交通網・情報網が発達した国際化社会、郷土愛の概念は消滅し、国に一極集中している。

頑張れ三河は死語、奮起せよ日本である。

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