風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

「ごめん」と言えない私で「ごめんなさい」 270号

2008年05月02日 18時37分43秒 | 随想
一言「「ごめん」の言葉が無い為に、雰囲気が変わることがある。「ごめんなさい」の一言で場の緊張感が解消することもある。「ごめんなさい」の言霊は破壊力がある。

「ごめんなさい」というのは自分の非を受け入れ、相手に謝罪する言葉である。「申し訳ない」とか「すまん」も同じであるが、相手によっては、素直に「ごめんなさい」が言えないことがある。

相手と競争があり、主導権争いをしていると、「ごめんなさい」は「負け」を認めるような屈辱感や惨めさを感じる。相手も同じに思うだろう。深い付き合いがなければ、相手の力量が解らないので、些細な衝突も多発するのである。部分的に自分が負けたと決断して「ごめんなさい」と発言すると、普通の人間は、心を開き自分の他の部分の非を認め「ごめんなさい」と言うのだろう。人間は神様仏様ではないのだから完璧では決して無い。美しい人間関係が成立する。

「ごめんなさい」を言う勇気がないと、悪事が悪事を呼ぶ連鎖反応が発生する。小さな悪事を隠す為により大きな悪事を重ねる。良心の呵責に耐えられず泥沼に入り込んでしまう。虚栄心・権力欲・名誉欲・金銭欲などなどくだらない幻想を全て捨てればよいのである。棺桶に入れば全て燃えてしまう。「ごめんなさい」だけが燃え残る。死んだ後の反省は手遅れである。

世間は決して一人では生きていけないのだから、お互いに相手の長所を認め、短所を許す心の余裕が欲しいのである。人と人の間に生かさせて頂いているから人間なのである。多くの人様の御蔭で私の生命は維持できるのである。

自分の独断と偏見や経験不足で相手を誤解していたのが、突然自分の間違えに気付いた時「ごめんなさい」の言葉が自然に出る。虚栄心・権力欲・出世欲・金銭欲が強く、気の弱い人間は自己中心主義に陥りやすく、相手に配慮しないから「ごめんなさい」の言葉を決して発しない。考えようでは可哀想である。勇気を出して「ごめんなさい」と発声すると楽になるのに。

責任転嫁するための言い訳は虚栄心・権力欲・名誉欲・金銭欲などなどくだらない幻想の保持の為であるが、「ごめんなさい」の言葉が現状を維持し、更なる栄光の一里塚なのである。そして「ごめんなさい」は過去を清算し、明るい未来を約束し、他人から尊敬される。宇宙を司る偉大な存在は決して見逃さず善処してくれる。

心に変なこだわり、狂信的なとらわれ、異常な偏りがなければ、自分の勘違い・思い違いに「ごめんなさい」と素直に言え、相手の不具合には笑顔で「ごめんなさい」の言葉を待つ余裕が出来るのである。

相手も「ごめんなさい」と言いたいのであるが、諸般の事情で言い出せないでいるのかもしれない。私も私事都合で相手によっては「ごめんなさい」と言えないのである。まだまだ心に「こだわり・かたより・とらわれ」が渦巻いている。

「ごめん」と言えない私で「ごめんなさい」。「ごめんなさい」は凄い言葉である。

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