自然は立派やね。私は日記をつけておるけど、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる。だから自然の法則を真似て人間が暮らす。人間の欲望に従っては迷いの世界だ。真理を黙って実行するというのが大自然だ。誰に褒められると言うことも思わんし、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえるということもない。時がきたならばちゃんと花が咲き、そして黙って褒められても、褒められんでも、すべきことをして黙って去っていく。そういうのが、実行であり、教えであり、真理だ。
宮崎禅師 道元禅師は おっしゃっておるんや。「坐禅をすれば善き人となる」その善き人になかなかなれん。人間は名誉とか、 地位とか、見栄とか、我慢(わがまま)とか、そんなもんでいっぱいだ。欲は克服するすべを覚えんといかん。それが坐禅だ。
立松和平 禅師様は座禅の時に何か考えているでしょうか?
宮崎禅師 何も考えない。
立松和平 私は雑草が蔓延る様にいろいろ考えてしまいます。
宮崎禅師 妄想せんことや。いわゆる前後裁断や その時その時 一息一息しかないんだ。何か考えたらもうそれは余分や。人間は名誉とか地位とか見栄とか我慢(わがまま)とか そんなもんでいっぱいだ。欲は克服するすべを覚えんといかん。それが坐禅だ。
立松和平 座禅を続けることで克服できるのですか?
宮崎禅師 息と一つになる 欲の起こるすきがない。坐禅ということは まっすぐということや。まっすぐというのは 背骨をまっすぐ 首筋をまっすぐ右にも傾かない 左にも傾かない。まっすぐということは 正直ということや。
立松和平 身もまっすぐ、心もまっすぐですね?
宮崎禅師 身心は一如(一つ)やから 体をまっすぐにしたら心もまっすぐになっとる。
立松和平 それが座禅の姿ですね?
宮崎禅師 人間はわがままが自由やと思っておる。ちゃんと型にはまったものが平生底(日常)でなければならない。道元禅師様の座禅ということはすべてがみな禅だ。禅というたら 何か殊更にあるように思っておる。そうではなくて そのものと一つになっていくことが禅だから、歩いたら歩いた禅。しゃべったらしゃべったで、しゃべることが禅だ。
立松和平 座るのが座禅で、生活のすべてが禅ですか?
宮崎禅師 スリッパを脱ぐのも 禅の姿や。
立松和平 スリッパを揃える事が禅ですか?
宮崎禅師 スリッパをそろえるのが当たり前のこっちゃ。例えばスリッパがいがんでおったらほうっておけないんだ。スリッパがいがんでおるということは自分がいがんでおるんだ。自分がいがんでおるから いがんだやつが直せないだ。だから 物を置いてもちぐはぐに置くのと まっすぐに置くのとすべて心が表れておるのだから心がまっすぐであったら すべての物をまっすぐにする必要がある。
立松和平 スリッパをそろえるところまで修行ですか?
宮崎禅師 修行をしておるんじゃなくて当たり前のことをやっておるんや。それよりやる事がないのだ。
NHKの番組の部分を筆録した。話の内容を理解する為に、時間を掛けて仏教を勉強しないと理解できない深い対話なのである。いまだに勉強中である。
最新の画像[もっと見る]