風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

空海は風来坊参男坊 

2008年04月12日 11時20分13秒 | 随想

親を亡くして以来、仏教に興味がある。葬式の時、江戸時代の制度の名残で、浄土真宗が親父の檀家であることを知り、お袋は真言宗の家から嫁いできた経歴を聞いた。戦後の学校教育は宗教教育を除外しているから知識が無く、理解できなかったのであるが、以来独学の仏教研究が生甲斐になっている。

仏教の国民大衆に浸透した水流は、平安時代の伝教大師最澄の天台宗と弘法大師空海の真言宗の2つの水源がある。天台宗は栄西・道元の禅、法然・親鸞の浄土教・日蓮の法華経など多くの流れに分かれたが、真言宗は分かれることが無く、空海さんの個人崇拝の色彩が濃いようである。親父は最澄さんの教説であり、お袋は空海さんの思想で、息子の私には両人の遺伝子が同居している。

若い時に読んだ本、光永澄道和尚の「ただの人になれ」や酒井雄哉師を記述した「生き仏になった落ちこぼれ」の影響で比叡山延暦寺の千日回峰行に魅せられ、お山に登った。最近は空海さんと同行二人の四国遍路旅に心変わりしている。

夜に山中を歩く千日回峰行も昼間に野山・市街地を歩く四国遍路旅も歩く喜怒哀楽で、自分の内面を見詰め、本来の自分を探す歩行禅である。比叡山はプロの僧侶から学ぶ歩行禅であり、四国遍路旅は庶民が実践する素人主役の歩行禅である。

どちらも根底にお釈迦様の四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦)がある。物事は絶えず変化し、不変で絶対の存在はなく、お互いに影響しあって存在し、欲が少なくなると苦しみが減るのであるが、強欲が人間の本性であるから、だから人生は苦しいのである。

空海さんは貴族ではなく地方豪族の参男坊で、所在不明でブラブラしていた風来坊の時代が有った事を本で読み、私と同じであると思い最近特に親近感が強いのである。私の風来坊はいまだに継続する筋金入りで抜け出せないのが空海さんとの決定的な違いである。

空海さんの時代の権力は貴族が独占し、地方豪族の息子には縁遠い存在で、腐敗堕落した貴族に対する嫌悪感を内面に秘めた行動が、今でも庶民大衆に支持されている。苦しい生活の中に喜び楽しみを積極的に発見しようとする。

空海さんの即身成仏も最澄さんの弟子である法然さんの厭離穢土欣求浄土も、方法論は違うが、苦しい人生に光明を探すことは同じである。道は違っても、富士山の頂上を目指し、頂上からの景色は同じである。


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