還暦を過ぎてから冥土への一人旅が近いと意気投合、その予行練習を兼ねて夫婦旅を重ねた。東根室・たびら平戸口・西大山・稚内の国鉄時代の東西南北最先端駅を探訪、四国遍路など全国を回り、残るは山陰路、九州周遊が残ったが、突然のコロナ禍で遠出を自粛し、近場を車の日帰り旅行でお茶を濁す。
徳川家康生誕の岡崎城下の喜寿に達した老人は、吉良上野介の三河国幡豆郡吉良庄、今川義元の三河渥美半島の蔵王山・伊良湖岬、織田信長の尾張知多半島の師崎羽豆岬から三河湾の島影を眺めた。
三河と尾張の境は境川、三河の今川軍が縄張りを越え尾張の桶狭間に侵入したので織田軍が怒り義元を殺害した。
知多半島は漁港が多数あり、渥美半島はメロン、キャベツ、菜の花が満ちている。桶狭間の戦いは魚食民族と農耕民族の戦いだったのだろう。
家康は戦いの穢土を厭離し、農耕に偏らず、魚食に囚われず、加工品の八丁味噌にこだわり浄土を欣求した。
そして江戸を政治拠点とし長期政権を維持したが、外圧に屈し開国し大政奉還した。
歳月を経て、安倍政権の長期政権は腐敗し、名を変えた東京はウイルスに汚染された穢土、入国禁止の鎖国、歴史は繰り返す様である。
前総理の詭弁を弄する屁理屈が伝染した様だ。