風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

座って半畳・寝て一畳 

2007年05月23日 17時10分40秒 | 随想

55歳の時に、継続して長く勤務した会社の役職定年を迎えた。残ることも選択肢であったが、退職した。まだ自分の遣りたい事があるのかもしれないという漠然とした思いが有った。傍迷惑な考えが浮かんだ理由は分からない。摩訶不思議なのが人間である。禅に己事究明と言う言葉がある。私は何者だと言う問題提起である。

難解な禅の公案の本を読み漁った。比叡山延暦寺の西塔居士林の夏の参禅会に7年間通った。岐阜県美濃加茂の正眼寺住職の話も聞いた。

解かったことは「偏らない心・拘らない心・囚われない心」が出来れば、何でもできると言うことである。これが難しい。名古屋高速の収受員の仕事を見つけ、公休日には飯田市の援農ボランティアで果樹農家を手伝い、自分で自分の心身を苛めるから、自分の新たな可能性を発見できる。他人を苛めると問題が起きるけれども、自分の心身を苛めても、周囲の人々は笑顔なので、問題ないと思っている。

音痴であったけれども、プロの歌手に演歌の手ほどきを受けだいぶ上達した。自宅の庭の一坪農園で野菜を栽培している。そしてブログを作成することも出来るのである。年間に150の話を書き続ければ、7年間で千を超える文章が出来る。比叡山の荒行・千日回峰行も7年間で千日になる。真似したわけである。千回記述行と言って面白がっている。心が自由なので毎日が楽しく美しい。

位人臣(くらいじんしん)極めた王候も 名もなき人も 目は二つで鼻一つ 足で歩いて手で掴む 尻でものを言う人はない 座って半畳 寝て一畳 天下を取っても四畳半 着物は一着 ご飯は二杯 寝だめ食いだめ着だめもできず 厠の姿は皆おなじ 風呂に入る時はみな裸 嵐の中でも時がたつ 過ぎてしまえば屁の如し。現在只今に感謝すべし。

座禅堂での生活から考え付いたのだろと思うが、個人が禅的に必要な物量を端的に述べた文章であるが、禅坊主の言葉は上品とはいえない。しかし何か心和むのはおいらが、変人で異端児なのかもしれない。他と比較することなく、自分が納得出来て、穏やかな顔で生活が出来れば、いつの日か、周囲も納得して万々歳である。

一休宗純禅師の言葉を追加する。なんとかなる

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