風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

緑茶は日本人の心の故郷 290号

2008年05月29日 21時42分38秒 | 随想
一杯の コーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに 二人の胸の灯火が ちらりほらりとつきました・・・・。

コーヒー(珈琲)は、コーヒー豆を焙煎し挽いた粉末を、湯または水で成分を抽出した嗜好飲料である。戦後の日本壊しの一環として、進駐軍が持ち込んだモノカネ志向に心を向ける麻薬のように思えるのである。

アルコールや茶に遅れるが、人類との関わりが深い嗜好飲料である。欧米のコーヒーを提供する場の喫茶店は知識人や文学、美術などさまざまな分野の芸術家の集まる場として、文化的にも大きな役割を果たしてきた。

産地は北回帰線と南回帰線の間の熱帯で、南アメリカのコロンビア、アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロ山麓、オーストラリアのブルーマウンテンの麓、イエメンのモカ、ハワイのコナ、インドネシア・スマトラ島のマンデリンなどである。

日本の伝統的な嗜好飲料は緑茶である。仏教と共に中国から伝来した。無駄を極限まで排除した空間で抹茶を飲む茶道は、諸行無常、諸法無我、一切皆苦の人生を思い、知足満足の境地に到達できれば、現世で寂静涅槃の一期一会の宇宙に埋没できる。

茶道は、抹茶のモノの価値よりも、飲む雰囲気の価値を大切にするのである。畳に正座して、作法に従い、無言で無心で茶を喫すひと時が、心を矯正する。

中国禅の大巨匠である趙州禅師の問答「喫茶去」がある。 

趙州 「以前にお会いしましたか」
僧  「あります」
趙州 「お茶をどうぞ(喫茶去)」

趙州 「以前にお会いしましたか」
僧  「ありません」      
趙州 「お茶をどうぞ(喫茶去)」

この様子を見ていた住職が趙州にたずねた。
住職 「禅師は、初見にも喫茶去、再来にも喫茶去とおっしゃるが、何故ですか」
趙州禅師それには答えず「住職さん」
住職、おもわず 「ハイ」
趙州 「お茶をどうぞ(喫茶去)」

茶という小道具を介して、心と心の触れ合いが貴重なのである。自動販売機やスターバックスやドトールには期待できない領域である。緑茶は心の存在を思い出させる麻薬のようである。女房が無言で緑茶を持ってくるから、無言で飲むのである。

駅前の喫茶店「ドリーム」が閉店する。喫茶店が去るのである。自動販売機に客を奪われたのが原因で、もてなしの心が自動販売機に敗北した。豪華なソファに座り、しばしの休息をして、主人からの世間話から多くの情報を頂戴したが、叶わぬ夢となる。一抹の寂しさがあるが、諸行無常の世間である。西洋の市場原理の経済学で、古き善き日本は急速に淘汰されている。古き善き日本は降伏の白旗を掲げれば、幸福の黄色いハンカチに時間が変えてくれるだろうか?

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