経脈と流注とはどう異なるのか?その区別が自身には明確では無い、と思えるので整理する。
国試過去問で、「流注の問題として考えると」という設問のしかたをされる。例えば、「足の少陰経の流注の始まりはどこか?」と問われる。
ここは、「経脈の.......」という形でも問われるのだが、この違いは、流注のという場合は、12経脈を一つに繋がっているものとしての、であり、経脈のという場合は、経穴の流れとしての、である、と思える。
(例えば、足の少陰経の「流注」の始まりは「足の第五指の下」であり、「経脈」の始まりは「湧泉」であると言うように「流注」と言った場合と「経脈」と言った場合とでは異なる場合もあれば、足の厥陰経の様に「流注」の始まりも「経脈」の始まりも同じく「大敦」という場合とがある、ので話がややこしくなる、ので国試出題者の先生方は......)
ここは鍼灸学校的には、体表の目に見えるものを指して経脈、その経脈に体内の目に見えない部分を加えたものを指して流注と呼んでいるごとくである。
これは左合先生の説かれることを踏まえれば、本来の経脈の流れを経脈、12経脈を一つに繋げるための、あるいはその経脈に冠した臓腑と関連付けるための作文部分を含めた経脈の流れを流注と呼んでいる、ということになろうか。
また、本来、流注とは「流れ・注ぐ」であるから、「経脈」も「流注」もともに「経脈の流注」であり、「目に見える」経脈の流注と「目に見えない部分を含めた」経脈の流注と呼ぶべきである、と思える。
あるいは、経脈の「本来の流注」と「作文の流注を含めた流注」であろうか......。
国試過去問で、「流注の問題として考えると」という設問のしかたをされる。例えば、「足の少陰経の流注の始まりはどこか?」と問われる。
ここは、「経脈の.......」という形でも問われるのだが、この違いは、流注のという場合は、12経脈を一つに繋がっているものとしての、であり、経脈のという場合は、経穴の流れとしての、である、と思える。
(例えば、足の少陰経の「流注」の始まりは「足の第五指の下」であり、「経脈」の始まりは「湧泉」であると言うように「流注」と言った場合と「経脈」と言った場合とでは異なる場合もあれば、足の厥陰経の様に「流注」の始まりも「経脈」の始まりも同じく「大敦」という場合とがある、ので話がややこしくなる、ので国試出題者の先生方は......)
ここは鍼灸学校的には、体表の目に見えるものを指して経脈、その経脈に体内の目に見えない部分を加えたものを指して流注と呼んでいるごとくである。
これは左合先生の説かれることを踏まえれば、本来の経脈の流れを経脈、12経脈を一つに繋げるための、あるいはその経脈に冠した臓腑と関連付けるための作文部分を含めた経脈の流れを流注と呼んでいる、ということになろうか。
また、本来、流注とは「流れ・注ぐ」であるから、「経脈」も「流注」もともに「経脈の流注」であり、「目に見える」経脈の流注と「目に見えない部分を含めた」経脈の流注と呼ぶべきである、と思える。
あるいは、経脈の「本来の流注」と「作文の流注を含めた流注」であろうか......。