経絡経穴の二重性について考えている。認識論の実力の必須性、それゆえ自身の認識論の実力の無さ痛感させられる。
経絡経穴について学ぶということは、これは経絡経穴に限らず東洋医学の学びにおいては常にであるが、まずは現在の定説としてあるものを学ぶことである。
しかしながら東洋医学のほとんどの学びにおいてその学ぶものは実体としては存在しないと言ってよいものであるから、例えば経絡経穴の問題、例えば五臓六腑の問題、例えば陰陽五行論の問題……その理解のために原点に立ち返っての原点からの生成発展しての現在である、と捉え返しての学びが必要とされる。それゆえそれらの学びにおいては現在あるものと、原点から現在あるものへと生成発展して来たものとの二重性としての理解、学びが必要とされる、と思う。
経絡経穴を二重性において捉えるとは斯くの如きことである、と当初は理解していたのであるが、近頃それでは不足である、と思えるようになってきた。
どういうことか?といえば、例えば経絡経穴概論で取穴部位を知識として学び、現在ではその知識としてある経絡経穴が実際の身体のどこなのか?ということを学んでいる。そういう知識としての事実としての経絡経穴とは相対的独立に、観念的な実体としての経絡経穴があるのであり、その観念的な経絡経穴をこそ問題にしなければならないのでは?ということである。別言すれば、経絡経穴を二重性において捉えるとは、経絡経穴を観念と実体の二重性において捉えるということが必要なのでは無いか?ということである。
そういう意味で、経絡経穴の原点を古典に学ぶ、といった場合、経絡経穴が古典においていかに説かれているか?ということでは無くて、それだけでは無くて、その背後にある筈の古代中国人の認識としての経絡経穴、彼らのアタマの中の経絡経穴という像はいかなるものなのか?ということを問題としていかねばならない。と思える。
ここは、経絡経穴が役に立つか否かの分かれ道ともなる、と思えるだけに引き続き考えて行きたい。
経絡経穴について学ぶということは、これは経絡経穴に限らず東洋医学の学びにおいては常にであるが、まずは現在の定説としてあるものを学ぶことである。
しかしながら東洋医学のほとんどの学びにおいてその学ぶものは実体としては存在しないと言ってよいものであるから、例えば経絡経穴の問題、例えば五臓六腑の問題、例えば陰陽五行論の問題……その理解のために原点に立ち返っての原点からの生成発展しての現在である、と捉え返しての学びが必要とされる。それゆえそれらの学びにおいては現在あるものと、原点から現在あるものへと生成発展して来たものとの二重性としての理解、学びが必要とされる、と思う。
経絡経穴を二重性において捉えるとは斯くの如きことである、と当初は理解していたのであるが、近頃それでは不足である、と思えるようになってきた。
どういうことか?といえば、例えば経絡経穴概論で取穴部位を知識として学び、現在ではその知識としてある経絡経穴が実際の身体のどこなのか?ということを学んでいる。そういう知識としての事実としての経絡経穴とは相対的独立に、観念的な実体としての経絡経穴があるのであり、その観念的な経絡経穴をこそ問題にしなければならないのでは?ということである。別言すれば、経絡経穴を二重性において捉えるとは、経絡経穴を観念と実体の二重性において捉えるということが必要なのでは無いか?ということである。
そういう意味で、経絡経穴の原点を古典に学ぶ、といった場合、経絡経穴が古典においていかに説かれているか?ということでは無くて、それだけでは無くて、その背後にある筈の古代中国人の認識としての経絡経穴、彼らのアタマの中の経絡経穴という像はいかなるものなのか?ということを問題としていかねばならない。と思える。
ここは、経絡経穴が役に立つか否かの分かれ道ともなる、と思えるだけに引き続き考えて行きたい。