木登り行なった。ブログを書くことの意義実感された。
昨日、久しぶりに木登り行なった。冬の木登りには大いなる意義がある、自身にとっては思うから考えるへを思い考えることが可能となって行くための唯一といっていい実践である、と自身で位置付けた、にもかかわらずである。
理由は二つ、一つは冬の寒さと雪、そしてそれゆえ、木も自身の手足も冷え、乾燥して、木に登ろうとしても足裏だけでは無く、掌までもが滑る状態になってしまっているので、先々週、そして先週の始めに木登り行なった時には、登れる気配すら無い、登るという形すら取れない状態であったから、それゆえ……であった。
昨日は、立木を対手にして掌打、手刀打、正拳突、足払い、前蹴等々での鍛錬を30分行い、その後に木登り15分行なった。(時間切れで終了)
当初は立木の掌打等による鍛錬のみで終わる予定であったのだが、木登りを行わない理由として、寝不足や「全く出来ないことをやってみても無駄、可能性のあることを現実性に転化する努力こそが……」等々の言訳が浮んでいたのであるが、ふと思い浮かんだのが自身のブログであった。端的には、「さんざん冬の木登りには大いなる意義がある、とブログに書いておきながら……」というものであった。それゆえ、「出来ないことは分かっているけれども、ともかくやってみよう」となった。
さて、実際に木登りをしようと始めてみると、先週と同じくの、「登れる気配すら無い、登る形すら取れない状態での木登り」であった。が、今回は、「さんざんブログで書いたのだから……」として始めた以上すぐに引き下がるわけにも行かず、で、また、「出来る運動と出来ない運動との二重性として運動することが、アタマの働きを活性化してくれる筈!」との思いも浮んでの、出来なくてもやり続けることが肝腎との思いでの、少しも登れることの無い、登る形にすらならない木に登ろうとすることの繰り返しであった。
が、まさに世界は弁証法性を持っているであった。絶対無理と思える木登りが繰り返すことで、15分も経つ頃には少し手足が木に引っかかるような気配がして来て、15分を超えたところで突然に登れてしまった。まさに相互浸透、量質転化であった、と思える。
そして、その滑るばっかりで、何の張り合いも無い木登りを15分の間、続けることが出来た原動力とは、と考えてみるとブログを書くことであったと……。
ここには、自身の限界というもの、それを超えるということの構造、過程的な構造があるのだ、と思える。改めて、自身の認識と実体をしっかりと振り返って書きたい、と思う。
昨日、久しぶりに木登り行なった。冬の木登りには大いなる意義がある、自身にとっては思うから考えるへを思い考えることが可能となって行くための唯一といっていい実践である、と自身で位置付けた、にもかかわらずである。
理由は二つ、一つは冬の寒さと雪、そしてそれゆえ、木も自身の手足も冷え、乾燥して、木に登ろうとしても足裏だけでは無く、掌までもが滑る状態になってしまっているので、先々週、そして先週の始めに木登り行なった時には、登れる気配すら無い、登るという形すら取れない状態であったから、それゆえ……であった。
昨日は、立木を対手にして掌打、手刀打、正拳突、足払い、前蹴等々での鍛錬を30分行い、その後に木登り15分行なった。(時間切れで終了)
当初は立木の掌打等による鍛錬のみで終わる予定であったのだが、木登りを行わない理由として、寝不足や「全く出来ないことをやってみても無駄、可能性のあることを現実性に転化する努力こそが……」等々の言訳が浮んでいたのであるが、ふと思い浮かんだのが自身のブログであった。端的には、「さんざん冬の木登りには大いなる意義がある、とブログに書いておきながら……」というものであった。それゆえ、「出来ないことは分かっているけれども、ともかくやってみよう」となった。
さて、実際に木登りをしようと始めてみると、先週と同じくの、「登れる気配すら無い、登る形すら取れない状態での木登り」であった。が、今回は、「さんざんブログで書いたのだから……」として始めた以上すぐに引き下がるわけにも行かず、で、また、「出来る運動と出来ない運動との二重性として運動することが、アタマの働きを活性化してくれる筈!」との思いも浮んでの、出来なくてもやり続けることが肝腎との思いでの、少しも登れることの無い、登る形にすらならない木に登ろうとすることの繰り返しであった。
が、まさに世界は弁証法性を持っているであった。絶対無理と思える木登りが繰り返すことで、15分も経つ頃には少し手足が木に引っかかるような気配がして来て、15分を超えたところで突然に登れてしまった。まさに相互浸透、量質転化であった、と思える。
そして、その滑るばっかりで、何の張り合いも無い木登りを15分の間、続けることが出来た原動力とは、と考えてみるとブログを書くことであったと……。
ここには、自身の限界というもの、それを超えるということの構造、過程的な構造があるのだ、と思える。改めて、自身の認識と実体をしっかりと振り返って書きたい、と思う。