陰陽五行説が陰陽五行論へとなって行くには、「武道哲学講義」に学ぶ必要があると思える。
当初自身のブログでは、陰陽五行論としたり陰陽五行説としたりと、論と説が明確に区別されていなかった。
理由は、現実には論の段階で無く説でしか無いとの思いと説を論へとして行きたいとの自身の思いが強くあったので、陰陽五行説・論を、ある時は現在のあり方から陰陽五行説、またある時は、あるべき姿との思いを込めて陰陽五行論としていた。
そうは言っても、どうすれば陰陽五行説が陰陽五行論へとなって行けるのかが明確ではなかったのも正直なところである。
ところが、「武道哲学講義 第一巻」「武道哲学講義(Ⅶ)」に学ぶと、どうすればいいのかが見えて来た様に思える。
例えば、「武道哲学講義 第一巻」の「第ニ章 (10)すべての出来事を二重性として捉えられることの根本理由」で説かれる内容があって初めて陰陽五行説は陰陽五行論へとなって行けるのだと思える。
具体的には、陰陽説が陰陽論へとなる為には、「すべての出来事を陰陽の二重性として捉えられることの根本理由」が解(説)けることが必要であるし、同じく五行説が五行論へとなる為には、「すべての出来事が五行として捉えられることの根本理由」が解(説)けることが必要である筈。
しかしながら、残念なことに、鍼灸、東洋医学の世界には、その事が必要であるとの問題意識すら無く、ただ「役に立つから」で済ましてしまっている現実がある。
南郷先生以前にその事をまともに解(説)けた存在は、学問の世界でも皆無であるのだから、鍼灸、東洋医学に関わる人々だけを非難するのは、酷かもしれないが。
鍼灸、東洋医学を科学・学問へとしていく為には、武道哲学に学ぶこと必須であると思えるが、鍼灸、東洋医学の現状からは、夢のまた夢との思いする。
当初自身のブログでは、陰陽五行論としたり陰陽五行説としたりと、論と説が明確に区別されていなかった。
理由は、現実には論の段階で無く説でしか無いとの思いと説を論へとして行きたいとの自身の思いが強くあったので、陰陽五行説・論を、ある時は現在のあり方から陰陽五行説、またある時は、あるべき姿との思いを込めて陰陽五行論としていた。
そうは言っても、どうすれば陰陽五行説が陰陽五行論へとなって行けるのかが明確ではなかったのも正直なところである。
ところが、「武道哲学講義 第一巻」「武道哲学講義(Ⅶ)」に学ぶと、どうすればいいのかが見えて来た様に思える。
例えば、「武道哲学講義 第一巻」の「第ニ章 (10)すべての出来事を二重性として捉えられることの根本理由」で説かれる内容があって初めて陰陽五行説は陰陽五行論へとなって行けるのだと思える。
具体的には、陰陽説が陰陽論へとなる為には、「すべての出来事を陰陽の二重性として捉えられることの根本理由」が解(説)けることが必要であるし、同じく五行説が五行論へとなる為には、「すべての出来事が五行として捉えられることの根本理由」が解(説)けることが必要である筈。
しかしながら、残念なことに、鍼灸、東洋医学の世界には、その事が必要であるとの問題意識すら無く、ただ「役に立つから」で済ましてしまっている現実がある。
南郷先生以前にその事をまともに解(説)けた存在は、学問の世界でも皆無であるのだから、鍼灸、東洋医学に関わる人々だけを非難するのは、酷かもしれないが。
鍼灸、東洋医学を科学・学問へとしていく為には、武道哲学に学ぶこと必須であると思えるが、鍼灸、東洋医学の現状からは、夢のまた夢との思いする。